真宗の葬儀  参考「真宗の葬儀」日豊教区
 命終
お内仏(仏壇)を掃除し、花はハデな色は避け、打敷は白系統にし、お灯明をあげます。


遺体をお内仏の間に移します。お内仏の間に移せない場合は、ご本尊、ご絵像またはお名号を安置します。
遺体を中心に考えてお内仏を二の次にしがちですが、真宗門徒にとってはどこまでもご本尊が中心です。
本尊

遺体を移すに当たって、釈尊涅槃の形に準じて北枕としますが、お内仏を無視してまで北枕にする必要はありません。
遺体の頭上(枕もと)に卓(小さな机)を置き、ローソクをともし、お香をたきます。卓の上に一膳飯など供えません。
遺体に着物をさかさにかけたり、刃物を置いたりしません。
 枕直し勤行(枕経・枕づとめ)
住職(あるいは僧分の方)と遺族・参集者ともども、お内仏にて勤行いたします。
 納棺
近親者で遺体の湯潅をして、白服に包み、木珠(木製の念珠)をもちいて、合掌のうえ、納棺します。
納棺の時、旅装束と称して、手甲、脚絆、わらじ、杖、編み笠、六文銭などを入れ、更に三角の布をつけさせるむきがありますが、このようなことはいたしません。
 法名
故人が帰敬式(ききょうしき)を受けていない場合は、葬儀前に受式して法名をつけていただきます。
帰敬式は仏弟子となる儀式で、本来は生前に受式すべきものです。
法名は2字です。釈◯◯ (戒名とはいいません)
 通夜(つや)
住職、参集者一同お内仏にてお勤めをいたします。
有縁の人々が集まって《死》の厳粛さに触れ、聞法の座としたいものであります。
 葬儀
 葬儀の順序
1. 総礼(そうらい)
2. 勧衆偈(かんしゅうげ) 出棺勤行
3. 弔辞
4. 正信偈(しょうしんげ)
5. 焼香
6. 弔電
7. 喪主挨拶
弔電は、葬儀に参列できないため、遺族に対して出されたものです。必ずしも披露する必要はありません。
 中陰(四十九日)
亡くなった日を第一日として四十九日の間を中陰(ちゅういん)といい、亡き人を偲び、七日ごとに仏事をつとめます。


■法名とは
私たちは、日ごろ両親からの願いがかけられた名前で生活していますが、帰敬式を受式すると「釈◯◯」という法名をいただきます。この「釈」とは、釈迦・諸仏の弟子となるという名告りをあらわうものです。
つまり法名は、釈尊の教えを聞いて生きる者、「仏教徒」としての名告りなのです。





 弔辞・弔電の言葉  弔辞を読む時、焼香は遠慮しましょう

真宗で使う言葉 真宗では使わない言葉
お浄土・彼の土
西方浄土・極楽浄土
天国・草葉のかげ
冥土・黄泉の国
往生する・お浄土へ還る 永眠する・昇天する
神に召される・旅立つ
しのんでお念仏 ご冥福を祈る
   み霊・在天の霊
追弔・おとむらい 慰霊


 この、使う言葉、使わない言葉は、真宗の教えを伝えるために大切です。







清め塩(真宗大谷派ホームページ)   『佐賀新聞』

仏教においては、そもそも「生死一如(しょうじいちにょ)」「生者必滅(しょうじゃひつめつ)」といい、「死」を穢(けが)れたものとは受け止めません。 特に浄土真宗では、「なごりおしく思えども、娑婆(しゃば)の縁つきて、いのち終わるとき、彼の土へはまいるべきなり」と教えられ、亡くなられた方々は阿弥陀様のお浄土に往生された諸仏(しょぶつ)といただき、亡き人の葬儀は、その方が如何(いか)なる死に方をされようとも、亡き人(諸仏)の「無言の説法」の仏事であります。 したがいまして、真宗のご門徒ならびに、ご門徒の葬儀に携(たずさ)われる葬儀社の各位におかれましては、何卒、葬儀式を真宗儀式の名にふさわしい、大切な仏事としていただきますよう『清め塩』の廃止を切に念願し、何卒ご理解、ご協力下さいますようお願いいたします。

この、難波別院(なんばべついん)の『清め塩』廃止についてのお願いの文書は、1998年9月に作成され配られました。

また三重県の四日市仏教会も1998年5月、清め塩、友引の慣習廃止の決議をしています。

津久見・臼杵でも『清め塩』の廃止にむけての動きが始まりました。

田川・湯布院・その他













 寺(本堂)での葬儀について

蓮照寺 総代会
蓮照寺 世話人会
蓮照寺 婦人会

寺(本堂)で葬儀をする場合は寺の祭壇を使用し、おときは婦人会 へ頼むことを原則とする。
(喪主が他の祭壇・おときを使用したい場合は住職へ連絡する)

【祭壇】

祭壇・他使用料 5万円
 内訳 婦人会へ1万
     祭壇飾り付け代1人につき3千円
     残りを寺へ

◎祭壇を使用しない場合も使用料として5万円

【おとき】

おとき料 1人前 1,100円×人数
 内訳 婦人会へ100円×人数
     おとき手伝い1人につき4千円
     残りを寺へ








  死はきらいでも 尊いという意味がある

  死を問うことは生の意味を見いだすことである

それ、倩(つらつら)人間のあだなる体(てい)を案ずるに、生(しょう)あるものはかならず死に帰し、さかんなるものはついにおとろうるならいなり。

さればただいたずらにあかし、いたずらにくらして、年月をおくるばかりなり。これまことになげきてもなおかなしむべし。

このゆえに、上(かみ)は大聖世尊(だいしょうせそん)よりはじめて、下(しも)は悪逆の提婆(だいば)にいたるまで、のがれがたきは無常なり。

しかればまれにも、うけがたきは人身(にんじん)、あいがたきは仏法なり。

たまたま仏法にあうことを得たりというとも、自力修行の門は、末代(まつだい)なれば、いまのときは、出離生死(しゅつりしょうじ)のみちはかないがたきあいだ、弥陀如来の本願にあいたてまつらずは、いたずらごとなり。

しかるにいますでに、われら弘願(ぐがん)の一法にあうことをえたり。

このゆえに、ただねがうべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定(けつじょう)して念仏もうすべきなり。
     『御文』三帖目第四通
世尊

釈尊

提婆

釈尊のいとこ、釈尊をねたんで、指導者となろうとするが失敗する。アジャセ太子をそそのかしてマガダ国王を殺そうと企てた。

末代

人の心が乱れにごり、仏の教えが行われにくい時代のこと。

出離生死

迷いの世界を出て、種々の苦を離れること。

いたずらごと

無益な一生

弘願

弥陀の本願、念仏の教え
この御文はお通夜の時に読まれます。