寺だより12号 2000/9/12
発行者 蓮照寺推進員協議会 10号 11号

母の遺したもの
古谷 義弘

 母ツギが他界して七年が過ぎました。
 在世中に使っていた机の引き出しに、お寺で知り合った方々から戴いた手紙を、整理して袋に一括し、写経したノート二十二冊に、通し番号が付され、紐で束ねて遺されていました。

 その通し番号の中で、一から四までのノートは、納棺の際に孫たちが「お婆ちゃんに持たせてあげよう」‥‥と、母の胸元に添えたので、手許に残っているのは五から二十二迄の、十八冊です。

 或る宗派では、写経をする者は、大いなる功徳が授かる、と説き、写経の戒めが細かく決められているようですが、浄土真宗では、写経の功徳とかを聞いたことはありません。寧ろ、経文を読誦することを、教えられてきたと思います。

 この原稿を書くに当たって、母が写経を始めた経緯と、写経の内容について調べてみたいと思いました。母の写経は、阿弥陀経が六十三回・正信偈が九十四回・和讃、御文、正信偈の解説、勤行集等の浄土真宗の経典が、経文の間に、随所に写経されていました。

 母が写経を始めた昭和六十二年六月、の同じ時期に、NHKの書道通信講座に入門し毛筆の稽古を始めています。
 母は八十一歳を超えてからの、写経と書道ですから、その心意気には唯々感銘するのみです。

 そればかりか、母は写経を始める直前に声が出にくくなり、県立病院で診察を受けたところ、老衰によるものと診断されました。それ以来、言語障害に悩まされましたが、境遇の変化による愚痴を、私共にこぼすこともなく写経に余生を託し、八十八歳の生涯を終えました。

 朝夕の勤行は自分の受け持ちとばかりに、読誦していた母でしたが、声を失ってからは黙読し、経文の頁を捲る真摯な母の後ろ姿を見兼ねて、平成四年八月十四日のお盆を機に、私が母と交代したことを忘れていません。そのお盆明けに、私の妻が入院して、手術を受けることになったのですが、母の胸中を察すると、胸がつまります。

 「義弘さん、私はうろたえません。」‥‥と言った言葉に、母の生き方を垣間見る思いがしました。

 平成五年五月下旬、母は庭先で転び、入院して一ヶ月間、病院生活を経験しました。退院後は自宅でベッド生活を余儀なくされ、家族や見舞い客との応対は筆談を用いました。

 往診の先生が入院を勧めると、「先生、入院なんておっしゃらないで下さい」と仰向けに寝たまま筆談で応えるのでした。

 家族の手厚い看護の甲斐もなく、平成六年二月二十一日に、家族、親族の見守る中で、静かに浄土へ旅立ちました。あと八日で、米寿でした。

 他の宗派に見られる写経の功徳を求めるつもりはありませんが、阿弥陀経や正信偈の写経を通じて、心の安らぎを得、お念仏のお教えに少しでも近づくことができるならば‥‥と思っています。

 母の遺した写経ノートを見るにつけ、仏前に報恩感謝を捧げる今日この頃です。
合掌。

茫 茫
神田スミヱ

 実家の父は幼い頃、母親と死別している。実母の五十年忌の法要を営んだ父は、その翌年の盆会に他界した。私にとっては

 小遣い銭 未だ欲しき頃 癌に仆れし
 父を葬りき 吾は末の子

 父は、母親の亡い淋しさを、家族に愚痴るようなことはなかったが、盆会が近づくと、墓の掃除は必らず父が行った。私はその度に従いて行ったので、夏休の思い出の一こまである。

 父は私のことを「スミさん」と呼んだ。父に、「スミさんも行くかっ‥」と声をかけられると、よく、あちこちとお共をした。

 私が子供の頃は、父が佛飯を上げていた。お佛器箱を、私が母から受け取り大切に抱えて、佛間に行く父に従った。父が佛飯を上げ灯りを点して正信偈を誦す。そのうしろに、姉や私が並んで坐した。

 最初は神妙にしているのだけれど、いつとはなく、姉が私の腰等をつつく。こそばゆくて、つつきかえす。こそこそ話も刻と共に大話になっていった。父の誦経が途中で止み、顔だけが後に向いて、騒ぐ私共をじっと見ていた。それに気づいて、話をぴたっと止めて坐り直す私達。

 毎日のことであった。父も叱ったりはしなかった。今頃になって私は思う。あの時どうして静かにしていられなかったのだろう‥。と。

 実家はお西である。父が折々に

「邪教に迷わずに、お念佛一筋でゆくんだよ‥」と話してくれた。

 存命であったなら、いろんな話をしてみたい。優しかった父の面影が顕つ。


同朋短歌

御佛の 立柱姿 拝むなり
四十八願 光を放つ

人思う よみがえる 此の日頃
枯れゆくのみなる 現しみにして
                    佐藤 増枝

ふた色の百日紅の花の色
並ぶ椿のみどり葉に映ゆ

涙など見せざりし父復員の
兄を迎えて声して泣けり
                    石谷 恵美代