• 大分県津久見市にある真宗大谷派の寺院です。

法話を聞く会 11

6月28日の法話を聞く会で録画したものを観ます。

こころの時代 『歎異抄』にであう 無宗教からの扉
念仏とはなにか  阿満利麿 宗教学者 明治学院大学名誉教授

因 縁 果
 
『歎異抄』は生きていく上でのよりどころになるような仏教の智慧というのは何かということを教えるための一つの手がかりを与えている書物

阿弥陀仏の誓い(誓願不思議)によって浄土に生まれることができると信じて、阿弥陀仏の指示通りにその名を称えようと思い立つその決断の時、阿弥陀仏は直ちに感応して、その人をむかえとって(摂取不捨)くださり、すべての人々を仏とする働きに参加させて(あづけむしめたまふ)おいでなのです。

阿弥陀仏の本願は、老人か若者か、善人であるか悪人であるかをお選びになることはありません。ただ信心を(かなめ)とすると、よくよく知らねばならないのです。そのわけは深く根をはった罪悪と、はげしい煩悩をかかえた衆生をたすけるための本願だからです。

信心 = 決断して選んで自分で心の底から納得する

阿弥陀仏の物語

五濁悪世       劫濁 見濁 煩悩濁 衆生濁 命濁                    『阿弥陀経』

国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。     『大無量寿経』

悲願    悲しい願い        北極星

宗教は神秘的体験ではない。

だからはっきりとわかる、念仏は実践が容易であるために一切の人々に通用する。もろもろの行は実践が困難なため、すべての人々に通用することができな。だからこそ一切の衆生を平等に往生させるために、難しい行を捨てて念仏を称えるという容易な行を採用して、本願とされたのであろう。

もし仏像を造り、塔を建てることをもって本願とされたならば、貧しく困窮している者は往生への望みを絶つことになってしまう。しかも世には富貴な者は少なく貧賤の者はきわめて多いではないか。だから阿弥陀如来は法蔵であった昔、平等の慈悲のこころをもようされて、(あまね)く一切の衆生をすくうために仏像を造り、塔を建てるなどの行いをかかげるようなことを、往生の本願とは、なされなかったのである。ただ一つの念仏を(とな)えるという行のみをもって、その本願となされたのである。

室津(むろつ)の遊女 法然が四国の流刑地への途上で出会ったとされる女性

念仏においては、はからいを捨てることが道理にかなっているのです(無義をもて義とす)。そのわけは、念仏は、わたくしたちがはかることもできず、説明もできず、思いめぐらすこともできないものだからです。と法然上人はおっしゃいました。『歎異抄』第10条

人間が仏になる努力を否定している。人間は努力をして、真理に近づくことはできない。

そういう人間がもし真理に近づく道があるとすれば、それは阿弥陀仏の本願というものに乗じるしかない。

みなさまがたは常陸から十あまりの国さかいをこえて身命をかえりみずに私を訪ねてきてくださったのですが、そのお心は、ひとえに往生極楽の道を問い、また聞くところにおありなのでしょう。しかしながら親鸞が念仏のほかに往生に効果のある特別の方法や、また一種の呪文や、難しい経典の言葉を知っているのではないかと、みなさまがたが気にかけていらっしゃるとしましたら、それは大きな誤りと言わねばなりません。

もしそういう期待がおありならば奈良や比叡山の大寺院には立派な学僧たちがいらっしゃることですからその人々をおたずねになり往生の(かなめ)をよくよくお聞きになるのがよろしいのではございませんか。

わたくし親鸞におきましては、ひたすら念仏して阿弥陀仏にたすけられていくのがよいという、よき人、法然上人の教えを受けて、それを信ずるほかに特別の理由はないのです。

念仏以外の修業をこころみて、仏になることができるはずであったのに、わざわざ念仏をしたがゆえに地獄に落ちたということならば法然上人にだまされたという後悔もうまれるでしょう。

しかしわたくしは念仏以外のいかなる修業にも耐えることができない人間です。到底地獄をまぬがれることはできない人間なのです。     『歎異抄』第2条 親鸞88歳  唯円39歳

念仏をすることによって自分がどういう存在なのかという問いが出てくるわけですね。

仏教はの宗教 覚というのは普通の自分のありようをもっと違う角度から見ることができる

本願とであうことによって初めて分かった、悲しいことに、わたし()禿(とく)親鸞は、愛欲の広い海に沈んだまま、世間がいう名声や利益に心を奪われて、歩むべき道を失っているのだ。

煩悩のままでも念仏すれば必ず浄土に生まれ仏になることが定まっているにもかかわらずそのことを喜ばないのだ。

なんと恥ずかしいことであろうか、なんと痛ましいことであろうか。

(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)

「いわんや我が弥陀(みだ)(みな)をもって物を接したまう。ここをもって耳に聞き口に(じゅ)するに、無辺の聖徳(しょうとく)、識心に攬入(らんにゅう)す。永く仏種となりて、(とん)億劫(おっこう)の重罪を除き、無上菩提(ぼだい)(ぎゃく)(しょう)す。」

元照(がんじょう)律師『弥陀経義』186頁

阿弥陀仏は名をもて人々と交わる、だからその名を耳に聞き、あるいは口に出して(とな)えると、阿弥陀仏の尊い功徳がわたくしたちの心の奥底にまとまって入ってくる(攬入(らんにゅう)す)。そして久しく仏になる種となり、知られざる、はるかな過去から積み重ねてきた重罪が、速やかに除かれ、さとりを得ることができる。

真仏報恩 名号板碑 1311年建立  埼玉県蓮田(はすだ)馬込(まごめ)