五念門
礼拝門・讃歎門・作願門・観察門・回向門
法敬坊、蓮如上人へ申され候う。「あそばされ候う御名号、焼け申し候うが、六体の仏になり申し候う。不思議なる事」と、申され候えば、前々住上人(蓮如)、その時、仰せられ候う。「それは、不思議にてもなきなり。仏の、仏に御なり候うは、不思議にてもなく候う。悪凡夫の、弥陀をたのむ一念にて、仏になるこそ不思議よ」と、仰せられ候うなり。P870
凡夫 菩薩
声聞
縁覚 独覚
菩薩
龍樹『十住毘婆沙論』 真言では龍猛(りゅうみょう)
天親『十地経論』
(序分義)また云わく、この五濁・五苦等は、六道に通じて受けて、未だ無き者はあらず、常にこれに逼悩す。もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり、と。抄出 P214
煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によって摂取を獲。この人はすなわち凡数の摂にあらず、これ人中の分陀利華なり。この信は最勝希有人なり、この信は妙好上上人なり。安楽土に到れば必ず自然に、すなわち法性の常楽を証すとのたまえり。 P466
しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆえに、これを「歓喜地」と名づく。これを初果に喩うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う。
ここをもって龍樹大士は「即時入必定」(易行品)と曰えり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註)と云えり。仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。P190
『十住毘婆沙論 』「入寺品」在家の菩薩
かくのごとき、我聞きたまえき。一時、仏、王舎城耆闍崛山の中にましまして、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千ありき。文珠師利法王子をして上首とす。『仏説観無量寿経』P89
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。P398 空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。P399
愚禿
いなづか 稲束