• 大分県津久見市にある真宗大谷派の寺院です。

扇子踊りと蓮照寺

扇子踊り

 扇子踊りは手踊りと違って一般向きではなく広く普及していませんでした。それで大正時代まではうちわを持って踊る人や、手踊りの人もいました。

 この状態を憂慮した人たちが大正末期に愛扇会を結成し、扇子踊りを津久見の踊りにひろめられました。その中に、蓮照寺総代であった左脇日出登(保存会長)さんがいました。

 また歌詞の「津久見くどき」は蓮照寺13代住職である古谷晃(1878-1959)の作です。

大分合同新聞夕刊より 1975(昭和50)年3月15日

 津久見の郷士民踊「扇子踊り」が本年八月オーストリアで開催される第五回国際民族舞踊大会に、日本代表として出場することに正式決定したのは、ついさきごろ一月七日のことであった。はなやかに脚光を浴びた「扇子踊り」が、名にし負うミカン、セメントの町津久見の名を、さらに一段と高く国の内外に輝かせることは確かであり、それはまた、ふるさと振興を強調する大分県にとっても、まさに時を得た一大快挙だと言えよう。

 「扇子踊り」は、もともと津久見市内警固屋地区に伝わる供養踊りの一つであり『扇子踊り由来記』」に、今から約四百年の昔、津久見は大友の支配下にあり、当時警固のため駐屯した武士たちが、隣国に対する警戒任務精励のかたわら、戦没勇士・農民の供養の願いにもと、部落民とはかり、ここに京舞の扇子踊りをはじめたという。

 文化四年の春、伊能忠敬が測量のため今の松崎風藤屋敷に宿泊のみぎり、部落民手製の扇子をもってこれを踊り旅情を慰めたと伝えられる。

 ちなみに踊りの心として騎馬の武将手網さばきもりりしい陣頭の姿、あるいは前後左右の敵と斬り結び、または強弓を引きしぼる勇者のおもむき、乱戦の最中古式ゆかしくたしなみ装う”合わせ鏡”の姿、果てはエイエイオーのときの声など、さながら往時の武人の心を今見るがごとく感ぜられる」と記されているとおり、大友武士にまつわる由来にふさわしく、優雅な舞い姿をもつ格調高い踊りである。

 津久見は大友宗麟ゆかりの地である。宗麟が隣接地の臼杵丹生島城に移ったのは永禄五年(一五六二)、天正五十年(一五八二)には津久見の隠棲(せい)地に移り、さらに天正十四年(一五八六)の島津軍豊後侵入は、宗麟と津久見をますます因縁深いものにしてしまった。

 「大分県の歴史」(渡辺澄夫著)によれば、その当時の津久見付近戦況の概略を

 「島津家久は天正十四年十二月はじめ、一隊を分かって、まず宗麟のまもる臼杵城を牽制させ…(中略)…府内にはいり、さらに南下して宗麟のまもる丹生島城を攻めた。宗麟は二門の国崩(くにくずし)と名づけた大砲を放ち、薩軍を寄せつけなかった。このころ津久見・久保泊でも、鳩・賀島・紀らの地士が日向から海路侵入した薩軍と交戦してこれを撃退した。」

 と記され、当時の激しい攻防ぶりの一端をうかがい知ることができる。そして宗麟と津久見の有縁を永久的なものに決定づけたのは、天正十五年(一五八七)、津久見が彼の永眠の地となったことであった。

 「扇子踊り」が、日本の代表的民踊の一つとまで成長したのは、津久見のこうした歴史的風土が大きく関与したことはもちろんであるが、なお踊りの普及指導に当たった保存会の功績を見逃すわけにはいくまい。

蓮照寺盆踊り準備の時の左脇日出登さん(1984年示寂80歳)

 話は今から五十数年前、大正も末のころにさかのぽる。当時、警固屋地区青年団員に「扇子踊り」が飯より好きという同級生仲間の三青年がいた。踊りの名手左脇日出登氏、太鼓打ちの名人小野松次郎氏、それに音頭取りにかけては近郷随一の大野文夫氏。三人の夢は「扇子踊り」を津久見自慢の踊りにまで育て上げることであった。

 踊りの普及指導に情熱を燃やす三人のスクラムは堅かった。大野氏がおはこの「白滝」や「那須与市」を口説けば、小野氏が太鼓をたたいてこれをはやし、左脇氏は扇子の操り方や踊りの指導と「扇手踊り」の輪は、おいおいに他地区まで広かって行き、そのうち徳補地区の小野喜一郎氏、津久見地区の大杉松吉氏らも仲間に加わり、昭和三十一年、ついに全市的な規模の保存会を結成するまでに至った。

 ついで、歌詞も現代の津久見にふさわしいものをと、蓮照寺の古谷晃氏が「津久見くどき」を作り、さらに市主催の盆踊り大会を開催するようになってからは、この「扇子踊り」はオール津久見の民舞とまでに成長を遂げてしまったのである。

 「扇子踊り」代表は、世話人二人・踊り子が二十四人の編成となっている。すでに大方の人選を終わり、二月以降は毎週土、日曜日ごとに練習会をもち「扇子踊り」をはじめ、「三勝」「津久見音頭」の錬磨に余念がない。練習会揚に充てられた市公民館柔道場は、絶妙な扇子の動きが優雅な美をあおり、気迫にみちた群舞が熱気をただよわせる。指導者は、この道五十年、円熟した踊り姿の左脇日出登保存会長その人である。かつての踊り好き青年たちも、今や七十一歳の老境に達し、太鼓の名手小野氏はすでにこの世の人でない。そして、津久見自慢の民舞とまで成長した「扇子踊り」は、やがて世界のヒノキ舞台に上ろうとしているのである。

【津久見くどき】

1950(昭和25)年 古谷晃 作

鳥がなきます東の空で
  のぼる朝日に朝霧はれりゃ
出船入船にぎわう港
  これぞ我等が津久見の町よ
春は花咲く公園岩屋
  警固屋天神宮のえ稲荷
夏は七浦七島めぐり
  渡洋漁業でその名も高い
保戸の港をまず船出して
  津久見おとめの姿をうつす
可愛いむくしまたずねて西へ
  黒い黒島男のひとみ
昔臼杵の稲葉の殿が
  お茶屋置かれた釜戸の小島
弓の矢竹の沢山出来た
  警固屋野島も昔の話
福の恵比須に祈願をこめて
  磯辺づたいに東に行けば
名にそぐわぬやさしの千怒の
  入江近くに有さいの島よ
時もみのりの秋ともなれぱ
  西も東も見渡す限り
こ金色づく津久見の蜜柑
  きれいさっぱりお化粧すませ
いきな津久見の少女に抱かれ
  お嫁入りするあのあでやかさ
津久見青江の青空高く
  西にそぴゆる姫見が岳は
真名の長者が磐にゃの姫を
  送りなされたゆかりのみ山
町の真中の八幡様は
  今を去る事六百余年
石清水からうつしたお宮
  天保十五の五月の末に
かくれなされた宗麟様の
  眠りなされるお墓も今は
南津久見の御内の里に
  こうげたえせぬ一つの名所
海にゃ海さち、山には山の
  とれぞつきせぬ宝の石は
小野田セメントまたカルシューム
  石灰、なま石、種々様々に
あまた商社が力を入れて
  広い世界の国々までと
日ごと夜ごとに船積みされる
  日ごと夜ごとに船積みされる
西も東も南も北も
  春夏秋冬花咲く津久見
いつも春風そよそよ渡る
  いつも春風そよそよ渡る

【弥陀和讃】

帰命長来弥陀如来
  大慈大悲の御誓願
久しく三塗に沈みしを
  弥陀の御慈悲でこの里に
二度会われぬ本願に
  会わせて下さる御慈悲とは
弥陀の御慈悲が無いならば
  又六道に迷うぞや
欲もしんにもおこれ共
  他力の信なそのままで
如何なる不思議の宿縁で
  此の本願に会う事の
なんさのうさの御苦労は
  私一人の為なるか