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『解読浄土論註』現代語訳 上

『解読浄土論註』現代語訳 下

『解読浄土論註』の現代語訳解読を見て記載しています。『解読浄土論註』は1975年10月25日大分光西寺での育成員学習会に出席の際求めたものです。
青字は『教行信証』に引文された箇所
紫字は『解読浄土論註』の細註。『真宗新辞典』
偈の書き下しは、東本願寺出版発行の『真宗聖典』によっています。
『往生論註』原文のリンク先は聖教電子化研究会です。

この『解読浄土論註』の解読(現代語訳)文で改めたところがあります。

25頁「めくら」→「盲者(無明存在)」
109頁「譏嫌きげんの名」の名前の箇所を省いています。
152頁「一人の目闇の比丘の」→「一人の失明の比丘の」
152頁、172頁、181頁、185頁「おまえ」→「あなた」

序章 本願の歴史八 仏道の歴史への応答
一 『浄土論』の題名九 観察門
二 『浄土論』の組織   ①仏国土の荘厳
三 「願生偈」と五念門   ②仏の荘厳
四 天親の一心帰命の信   ③菩薩の荘厳
五 礼拝門十 回向門
六 讃嘆門十一 八番問答
七 作願門
『大乗仏典 中国・日本篇 第5巻 曇鸞 浄土論註』参照

聖全Ⅰp279 往生論註

『解読浄土論註』2頁

無量寿経むりょうじゅきょう優婆提舎うばだいしゃ願生偈がんしょうげちゅう 巻上

 世親菩薩(400頃~480頃)造る 曇鸞法師(476〜542)註解す

序章 本願の歴史

 つつしんで龍樹菩薩(150~250頃)の造られた『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』をひもといてみるに、次のようにいわれている。菩薩が不退転ふたいてんを求めるに、二種の道がある。一には難行道なんぎょうどう、ニには易行道いぎょうどうである。
難行道なんぎょうどうとは、濁乱じょくらんの世、仏ましまさぬ時に不退転ふたいてんを求めることが難しいことをいう。この難について、そのすがたはいろいろあるが、今はその要点の若干をかかげて、難といわれるわけを説明することにする。

 一には、外道げどうのみせかけの善行は、菩薩の法を乱す。
 二には、自分だけさとって、それで足れりと執することが、大慈悲をさまたげる。
 三には、(内観のない)自らの悪を反省しない人は、他の人の勝れた徳をも破壊する。
 四には、目前の利益にまどわされて、まじめに努力してきた効果を失ってしまう。
 五には、道を求めてもただ自力ばかりをたのんで、他力にたもたれることがない。

 このようなことなど、目に見えるものすべて難というべきことばかりである。ここに、不退転ふたいてんを求めることの難しさは、たとえば陸路を歩行すれば苦しいようなものである。
 易行道いぎょうどうは仏を信ずることのみをよすがとして浄土に生じたいと願えば、仏の願力に乗じて、やがてかの清浄の土に往生することができ、仏の本願の力に支えられて、大乗の正定しょうじょうをえた人々の仲間に入ることができるのである。この正定しょうじょうとは即ち不退転ふたいてんのことである。これをたとえれば、水路を船に乗って行けば楽しいようなものである。

 この『無量寿経優婆提舎うばだいしゃ』は、およそ大乗の極致きょくちであり、順風を帆にうけて航海する大船にもたとえられるべきである。

正定聚しょうじょうじゅ
 正性定聚・必定聚・直見際ともいう。三聚の一つで、正定聚は、かならず証果を得ると定まったもの。これに対して決して証果を得られぬものを邪定聚、縁あれば証果を得、縁なければ得られぬものを不定聚という。聚は仲間とか、集団のこと。


一 『浄土論』の題号

『解読浄土論註』9頁

 「無量寿」はというのは、安楽浄土にまします如来にかぎっての名である。釈迦牟尼仏は王舎城おうしゃじょう及び舎衞国しゃえこくにましまして、大衆の中でこの無量寿仏の荘厳の功徳をお説きになられたので、無量寿仏の御名をそのままこの経の体とされたのである。
 後の聖者しょうじゃバスバンズVasubandhu(天親(旧訳)世親(新訳))菩薩は、如来の大悲の教えを身にいただいて、

聖全Ⅰp280 往生論註

無量寿経にもとづいて願生の偈をつくり、さらに長行じょうごうを造って重ねて尊いみことばを解釈されたのである。

 「優婆提舎うばだいしゃ」というのは、中国では訳語として的確なものがない。もし一面の意味をとれば、論とよぶことができる。訳語として的確なことばがないわけは、中国にはもともと仏がましまさなかったからである。たとえば中国の書だと、孔子こうしに関するものはけいといい、その他の人の製作したものはみな子孟子もうし荘子そうし荀子じゅんしなどの書)と名づけ、国史や国記のたぐいでも、それぞれに体裁がちがっているようなものである。
 ところで、仏の説かれた十二部経(経典を十二種に分類したもの)の中に、論議経ろんぎきょうというのがあって、これは優婆提舎うばだいしゃと名づけられる。さらに仏の弟子たちが、仏の説かれた経の教えを解釈して、それが仏の教えの意味にかなっていれば、仏はそれを優婆提舎うばだいしゃと名づけることを許された。それらが、仏法のすがたを得ているからである。ところが、中国語で論といえば、単に論議ということでしかない。どうして的確にそのことばを訳することができようか。また女性を子どもに対しては母といい、兄に対しては妹というようなものであって、こういったことは、みなそれぞれの意味によって、名前がちがってくるのである。ただ女という名前だけで、母や妹をひっくるめてしまえば、女という本質にかわりはないが、とうといとかいやしいとかという意味が含まれないことになるではないか。ここに論というのもまた同様である。だからそのままサンスクリットの発音を残して、ウパデーシャupadeśaというのである。

二 『浄土論』の組織

 この論の全体はおよそ二重になっている。一つは総説の部分、二つは解釈の部分である。総説の部分というのは、前の五言句のうたが全部それであり、解釈の部分というのは「論に曰く」以下の長行じょうごうが全部である。
 二重にしたわけは二つのたてまえがあるからである。つまり、偈は経を読誦することによって、総まとめにしたものだからであり、論は偈を説明することによって、内容を解釈したものだからである。


『解読浄土論註』13頁

 さて、題号の「無量寿」とは、つまり無量寿如来は寿命が永遠であって、はかりしられないという意味である。「経」とはじょうという意味である。いうこころは、安楽国にまします仏及び菩薩の清浄な荘厳の功徳と、その国土そのものの清浄な荘厳の功徳とが、衆生に対して大きく豊かな利益をもたらし、いつの世にも、はたらきをもちうるから、経と名づけるのである。
優婆提舎うばだいしゃ」とは、仏の説かれた論議経ろんぎきょうの名である。
 「願」とはこいねがうという意味である。「生」とは、天親菩薩が彼の安楽浄土に生まれたいと願い、

聖全Ⅰp281 往生論註

如来の清らかな蓮華の中に生まれることである。だから「願生」というのである。「偈」とは句の字数という意味である。五言の句で経典の内容を要約してうたうから偈というのである。
 「婆藪ばそ」を天と訳し、「槃頭ばんず」を親と訳する。この人を天親とあざなする。この人のことは『付法蔵経ふほうぞうきょう』に出ている。
 「菩薩ぼさつ」とは、サンスクリットの発音を全部あげると菩提薩埵ぼだいさったというべきである。菩提ぼだいとは仏のさとりをあらわすことばである。「薩埵さった」とは、あるいは衆生を意味し、あるいは勇健ゆうけんを意味する。仏道を求める衆生は勇猛ゆうもう強健きょうけんこころざしをもつから、菩提薩埵ぼだいさったと名づけるのである。いまただ菩薩といわれているのは、翻訳者が省略したからにすぎない。
 「造」も作るという意味である。人をとおして法を尊重しようとねがうところから、誰々が造ったといっている。
 だから「無量寿経・優婆提舎うばだいしゃ・願生偈・婆藪槃頭ばそばんず菩薩造」と言うのである。
 以上でこの論の題目の解説をおわる。

 「婆藪槃頭菩薩論曰ばそばんずぼさつろんわつ」というは、婆藪槃頭ばそばんず天竺てんじくのことばなり。震旦しんだんには天親菩薩ともうす。またいまはいわく、世親菩薩ともうす。旧訳には天親、新訳には世親菩薩ともうす。論曰ろんわつは、世親菩薩、弥陀の本願を釈しあらわしたまえることを、論というなり。わつは、こころをあらわすことばなり。この論をば『浄土論』という。また『往生論』というなり。p.517 尊号真像銘文


三 「願生偈」と五念門

『解読浄土論註』15頁

 (願生)偈の中を五念門に区分する。あとの長行じょうごうに説明してある通りである。
 まず第一行の四句には三念門が含まれている。上の三句は礼拝門讃嘆門であり、下の一句は作願門である。
 第二行は論主自ら、私は仏の経に依って論を造り、仏の教えといささかの相違もない、仏の教えのままを身にいただくところ、ただ如来大悲の御旨に基づくのであると述べられるのである。
 なぜこう言われたかと言えば、「優婆提舎うばだいしゃ」という題目を充分なものにするためである。それと同事に、上の三門を全うし、下の二門を提起しようとしている。だから第一行に次いで説かれるのである。
 第三行より廿一行をかぞえるまでは観察門である。
 最後の一行は回向門である。
 以上で偈の章の部門わけをおわる。

世尊我一心せそんがいっしん 帰命尽十方きみょうじんじっぽう 無碍光如来むげこうにょらい 願生安楽国がんしょうあんらくこく

我依修多羅がえしゅたら 真実功徳相しんじつくどくそう 説願偈総持せつがんげそうじ 与仏教相応よぶつきょうそうおう

(国土1清浄しょうじょう) 観彼世界相かんぴせかいそう 勝過三界道しょうがさんがいどう
(国土2りょう) 究竟如虚空くきょうにょこく 広大無辺際こうだいむへんざい

(国土3しょう) 正道大慈悲しょうどうだいじひ 出世善根生しゅっせぜんごんしょう
(国土4形相ぎょうそう) 浄光明満足じょうこうみょうまんぞく 如鏡日月輪にょきょうにちがつりん

(国土5種々事しゅじゅじ) 備諸珍宝性びしょちんぼうしょう 具足妙荘厳ぐそくみょうしょうごん
(国土6妙色みょうしき) 無垢光炎熾むくこうえんし 明浄曜世間みょうじょうようせけん

(国土7そく) 宝性功徳草ほうしょうくどくそう 柔軟左右旋にゅなんさうせん 触者生勝楽そくしゃしょうしょうらく 過迦旃隣陀かかせんりんだ

(国土8-1すい) 宝華千万種ほうけせんまんじゅ 弥覆池流泉みふちるせん 微風動華葉みふどうけよう 交錯光乱転きょうしゃくこうらんでん

(国土8-2) 宮殿諸楼閣くでんしょろうかく 観十方無碍かんじっぽうむげ 雑樹異光色ぞうじゅいこうしき 宝蘭遍囲繞ほうらんへんいにょう

(国土8-3虚空こくう) 無量宝交絡むりょうほうきょうらく 羅網遍虚空らもうへんこく 種種鈴発響しゅじゅりょうほっこう 宣吐妙法音せんとみょうほうおん

(国土9) 雨花衣荘厳うけえしょうごん 無量香普薰むりょうこうふくん
(国土10光明こうみょう) 仏恵明浄日ぶつてみょうじょうにち 除世痴闇冥じょせちあんみょう

(国土11妙声みょうしょう) 梵声悟深遠ぼんしょうごじんのん 微妙聞十方みみょうもんじっぽう
(国土12しゅ) 正覚阿弥陀しょうがくあみだ 法王善住持ほうおうぜんじゅじ

(国土13眷属けんぞく) 如来浄華衆にょらいじょうけしゅ 正覚花化生しょうがくけけしょう
(国土14受用じゅゆう) 愛楽仏法味あいぎょうぶっぽうみ 禅三昧為食ぜんざんまいいじき

(国土15無諸難むしょなん) 永離身心悩ようりしんじんのう 受楽常無間じゅらくじょうむげん
(国土16大義門だいぎもん) 大乗善根界だいじょうぜんごんかい 等無譏嫌名とう む きげん みょう 女人及根欠にょにんぎゅうこんけつ 二乗種不生にじょうしゅふしょう

(国土17一切所求満足いっさいしょぐまんぞく) 衆生所願楽しゅじょうしょがんぎょう 一切能満足いっさいのうまんぞく
故我願生彼こががんしょうひ 阿弥陀仏国あみだあぶっこく

(仏1) 無量大宝王むりょうだいほうおう 微妙浄花台みみょうじょうけだい

(仏2身業しんごう) 相好光一尋そうごうこういちじん 色像超群生しきぞうちょうぐんじょう
(仏3口業くごう) 如来微妙声にょらいみみょうしょう 梵響聞十方ぼんこうもんじっぽう

(仏4心業しんごう) 同地水火風どうじすいかふ 虚空無分別こくむふんべつ
(仏5しゅう) 天人不動衆てんにんふどうしゅ 清浄智海生しょうじょうちかいしょう

(仏6上首じょうしゅ) 如須弥山王にょしゅみせんのう 勝妙無過者しょうみょうむかしゃ
(仏7しゅ) 天人丈夫衆てんにんじょうぶしゅ恭敬繞瞻仰くぎょうにょうせんごう

(仏8不虚作住持ふこさじゅうじ) 観仏本願力かんぶつほんがんりき 遇無空過者ぐうむくかしゃ 能令速満足のうりょうそくまんぞく 功徳大宝海くどくだいほうかい

(菩薩1) 安楽国清浄あんらくこくしょうじょう 常転無垢輪じょうてんむくりん 化仏菩薩日けぶつぼさつにち 如須弥住持にょしゅみじゅじ

(菩薩2) 無垢荘厳光むくしょうごんこう 一念及一時いちねんぎゅういちじ 普照諸仏会ふしょうしょぶつて 利益諸群生りやくしょぐんじょう

(菩薩3) 雨天楽花衣うてんがくけえ 妙香等供養みょうこうとうくよう 讃諸仏功徳さんしょぶつくどく 無有分別心むうふんべつしん

(菩薩4) 何等世界無がとうせかいむ 仏法功徳宝ぶっぽうくどくほう 我願皆往生ががんかいおうじょう 示仏法如仏じぶっぽうにょぶつ

我作論説偈がさろんせつげ 願見弥陀仏がんけんみだぶつ 普共諸衆生ふぐしょしゅじょう 往生安楽国おうじょうあんらくこく

八番問答


四 天親の一心帰命の信

『解読浄土論註』18頁

 世尊せそんわれれ一心に、尽十方じんじっぽう
 無碍光如来むげこうにょらい帰命きみょうして、安楽国に生ぜんと願ず。

 「世尊」とは諸仏に共通するよび名である。その智慧についていえば、あらゆる道理に通達し、迷いを断つという点では、煩悩の余習なごりさえとどめていない。このように智と断とが完全にそなわって、世の衆生を利益することができ、世の中から尊ばれる。だから世尊というのである。ここで世尊といわれるのは釈迦如来に帰依する意味である。
 どうしてそうわかるかというと、下の句に「我れ修多羅しゅたらに依る」と言われているからである。天親菩薩は釈迦如来の像法の世にあって、釈迦如来の経の教えにしたがえばこそ、往生を願われた。その往生の願いにはもとづくところがあるのである。

聖全Ⅰp282 往生論註

だから世尊ということばは、釈迦如来に帰依する意味だとわかるのである。

 ところで、この世尊ということばの意味は、ひろく諸仏に告げたと解してもさしつかえない。だいたい菩薩が仏に帰依するのは、あたかも孝子こうしが父母に帰服し、忠臣が主君に帰服するようなものである。たちいふるまいには私がなく、生も死もともにかならずしたがって、恩をわきまえ、徳に報いるのである。だからまず最初に申し上げなければならないのである。〔行p.203〕

 また天親菩薩の願われるところは重大である。もし如来が不可思議な威力をお加えにならなかったら、どうしてその願いを達成することができようか。だから今、如来の不可思議の力を加えられんことを願って、世尊と呼びかけたてまつったのである。
 「我一心」とは、天親菩薩が自らをはげまされたことばである。これは、無碍光如来を念じて、安楽浄土に生まれたいと願われ、心にたえまなく念じて、雑念が少しもまざらないことをいう。

 問う、仏法の中には我はない。ここではどうして我というのか。

 答う、我ということばには三つのもとづくものがある。一つには邪見にもとづくことば、二つには自分を誇張することば、三つには普通一般に行われることば、である。今ここで我れといわれたのは、天親菩薩が自分を指していわれたことばであって、普通一般のことばを用いられたのであり、邪見にもとづくことば、自分を誇張することばではない。

像法ぞうぼう
 正像末しょうぞうまつの三時の一。像とは映像の意で、釈迦牟尼仏の正法が映像されている時代ということで像法時という。正法時には釈迦の教法とそれを修行する道、及びそれの完成(証果)がともに存するが、像法時には、教行はあるとはいえ、もはやそれを如実に証りうる者がいない。曇鸞は『大集月蔵経だいじゅうがつぞうきょう』等によって、正法五百年、像法一千年と考え、天親菩薩を像法時の人としたと思われる。


五 礼拝門

『解読浄土論註』23頁

 「帰命尽十方無碍光如来」というのは、「帰命」は即ち礼拝門、「尽十方無碍光如来」は即ち讃嘆門である。
 なぜ帰命が礼拝であると知れるかといえば、龍樹菩薩が阿弥陀如来を讃嘆する文をお造りになった中で、或いは「稽首礼けいしゅらい」といい、或いは「我帰命がきみょう」といい、或いは「帰命礼きみょうらい」といわれている。この論の長行じょうごうの中にもまた五念門を修すといわれているが、五念門の中で礼拝が一ばんにある。天親菩薩はすでに往生を願われている。どうして礼拝せずにいられようか。だから帰命は即ち礼拝であると知れるのである。しかし礼拝はただ、うやうやしく拝したてまつることであって、かならずしも帰命ではないが、帰命はかならず礼拝である。もしこれによって帰命をおもえば、礼拝より意味は重い。帰は自らの心を表白するのだからよろしく帰命というべきである。論は偈の意味を解釈するのだから、ひろく礼拝について語っている。偈と論とが互いに呼応して、意義をいよいよ顕わしているのである。

六 讃嘆門

 なぜ「尽十方無碍光如来が讃嘆門である」と知れるかといえば、あとの長行じょうごうにいわれている。「どのようにするのが讃嘆門か、それは彼の阿弥陀如来の名をとなえ、その名が彼の如来の光明のはたらきたる智慧のすがたであるとうけとり、如来の名の意義のままに、真実にしたがって道をおさめ、如来の心にかないたいと思わしめられるからである。」と。

 釈尊が舎衞国しゃえこくでお説きになられた『無量寿経』(阿弥陀経p.128)によれば、

聖全Ⅰp283 往生論註

仏自ら阿弥陀如来の名号をお解きになられている。即ち、「どうして阿弥陀と名づけたてまつるのか、それは彼の仏の光明が無量であって、十方の国々を照らすに少しのさわりもない。だから阿弥陀となづけたてまつるのである。」また「彼の仏をはじめ、そのみもとにある人々の寿命は無量であり、永遠である。だから阿弥陀と名づけたてまつるのである。」と。

 問う、もし無碍光如来の光明が無量であって、十方の国土を照らしたもうに少しもさわりがないというのなら、この国の衆生はどうしてその光をこうむらないのか。光が照らさないところがあるのなら、どうしてさまたげないといえようか。

 答う、さまたげは衆生の側のことである。光にさまたげがあるのではない。譬えば太陽の光は四天下にあまねくふりそそぐが、盲者(無明存在)には見えないようなものである。これは太陽の光がゆきわたらないのではない。またふかくたれこめた雲が大雨をふらせても、かたい石にはしみこまないようなものである。これは雨がうるおさないのではない。
 もし一仏が三千大千世界をすべてつつんでいるというならば、これは声聞しょうもんが論ずる中の説である。もし諸仏があまねく十方無量のほとりなき世界をつつんでいるというなら、これは大乗の論の中の説である。

 天親菩薩がいま「尽十方無碍光如来」と言われるのは、とりもなおさず彼の如来の名によって、彼の如来の光明のはたらきたる智慧のすがたのままに讃嘆するのである。
 だから、この句は讃嘆門であると知れるのである。

声聞しょうもん
 仏の教えを聞いて進むものという意味で、仏弟子をあらわすことば。仏の教法、四諦の理を観じて、みずから阿羅漢となることを理想とする仏道修行者をいう。大乗では、縁覚えんがくとあわせて二乗という。


七 作願門

『解読浄土論註』28頁

 「願生安楽国」とは、この一句は作願門である。天親菩薩の帰命のこころである。

安楽の意味はあとの観察かんざつ門の中にくわしくのべられている。

 問う、大乗の経論の中には、処々に衆生はつづまるところ無生(空)であって、虚空のようなものだと説いている。どうして天親菩薩は「願生」といわれるのか。

 答う、衆生が無生であって虚空のようだと説くには、二種ある。
 一には、凡夫がいわゆる衆生という場合であって、凡夫が実体的にみている生死というようなもの、その見られているものは、つづまるところあることのないもので、ちょうど亀の甲に毛があるとみるようなもので虚空のようだというのである。
 二には、諸々の存在は因縁の生であるから、とりもなおさず不生である。それであることがないのは虚空のようだというのである。
 天親菩薩が願われる生は、因縁の意味である。因縁の意味だから、仮に生と名づけるのである。凡夫が実際に衆生があり、実際に生死があるというようなものとはちがうのである。

 問う、どのような意味で(因縁生の)往生と説くのか。

 答う、この国の人々の中にあって、五念門を修するという場合、

聖全Ⅰp284 往生論註

前念は後念に対して因となる。この娑婆世界の人間(因)と浄土の人間(果)とは全く同一ではない。しかし全く異なるものでもない。後念門を修する場合の前心と後心もまたこのようである。
 どうしてかといえば、もし同一であれば、因果がないことになるし、さればとて異なるなら娑婆の人間と浄土の人間とは相続していないことになるからである。この意味は(『中論』の)一異を観ずる論の中にくわしくのべてある。
 第一行の三念門の解釈をおわる。

 「世尊我一心」というは、世尊は釈迦如来なり。ともうすは、世親菩薩のわがみとのたまえるなり。一心というは、教主世尊きょうしゅせそんことのりをふたごころなくうたがいなしとなり。すなわちこれまことの信心なり。
 「帰命尽十方無碍光如来」ともうすは、帰命は南無なり。また帰命ともうすは、如来の勅命ちょくめいにしたがうこころなり。尽十方無碍光如来ともうすは、すなわち阿弥陀如来なり。この如来は光明なり。尽十方というは、じんはつくすという、ことごとくという。十方世界をつくして、ことごとくみちたまえるなり。無碍というは、さわることなしとなり。さわることなしともうすは、衆生の煩悩悪業ぼんのうあくごうにさえられざるなり。光如来ともうすは、阿弥陀仏なり。この如来はすなわち不可思議光仏ともうす。この如来は智慧のかたちなり。十方微塵刹土じっぽうみじんせつどにみちたまえるなりとしるべしとなり。
 「願生安楽国」というは、世親菩薩かの無碍光仏を称念しょうねんし、信じて安楽国にうまれんとねがいたまえるなり。
 「我依修多羅しゅたら 真実功徳相」というは、我は天親論主のわれとなのりたまえる御ことばなり。はよるという、修多羅しゅたらによるとなり。修多羅しゅたらは天竺のことば、仏の経典をもうすなり。仏教に大乗あり、また小乗あり。みな修多羅しゅたらともうす。いま修多羅しゅたらともうすは大乗なり。小乗にはあらず。いまの三部の経典は大乗修多羅しゅたらなり。この三部大乗によるとなり。真実功徳相というは、真実功徳は誓願の尊号そんごうなり。相はかたちということばなり。
 「説願偈総持そうじ」というは、本願のこころをあらわすことばをというなり。総持そうじというは智慧なり。無碍光の智慧を総持そうじともうすなり。
 「与仏教相応」というは、この『浄土論』のこころは、釈尊の教勅きょうちょく、弥陀の誓願にあいかなえりとなり。
 「観彼世界相 勝過三界道」というは、かの安楽世界をみそなわすにほとりきわなきこと虚空こくうのごとし。ひろくおおきなること虚空のごとしとたとえたるなり。p.518 尊号真像銘文


八 仏道の歴史への応答

『解読浄土論註』33頁

 次に優婆提舎うばだいしゃという名を充分なものにし、また上の三門(礼拝門・讃嘆門・作願門)を全うして下(観察門・回向門)の偈を起す。

 我修多羅われしゅたら、真実功徳くどくの相に依って
 願偈がんげを説いて総持そうじして、仏教と相応そうおうす〔行p.167〕。

 この一行はどのようにして優婆提舎うばだいしゃという名を充分なものにし、どのようにして上の三門を全とうして下の二門を起すのであろうか。

 偈に「我修多羅われしゅたら、真実功徳くどくの相に依って」と言われている。

修多羅しゅたらとは仏の経をよぶことばである。我れは仏の説かれたこの経のいわれを論述して、経といささかの相違もなく、まったく仏法のまことのすがたと一致しえたから、この論偈を優婆提舎うばだいしゃと名づくことができるのである。というのである。これで名を成立させおわった。

 どのようにして「上の三門を全とうして、下の二門を起すか」(成上起下)というに、「依る」ということには、

①「何に依るか」、②「なぜ依るか」、③「どのように依るか」、ということがある。
 ①「何に依るか」といえば、修多羅しゅたら(『無量寿経』)に依る。
 ②「なぜ依るか」といえば、如来はとりもなおさず真実功徳の相であるから。
 ③「どのように依るか」といえば、五念門を修することによって、如来の真実功徳の相に相応することができるからである。

 これで上を全とうして下を起すことをおわった。

 「修多羅しゅたら」とは、十二部経の中で仏が直接説かれたものを「修多羅しゅたら」という。つまり四阿含の三蔵などがこれである。三蔵以外の大乗の諸経もまた「修多羅しゅたら」と名づける。この偈の中で「修多羅しゅたらに依る」というのは、三蔵以外の大乗の修多羅しゅたらであって阿含などの経ではない。

 「真実功徳相」とは、功徳に二種ある。
 一には煩悩にとらわれた心より生じ、存在の道理にしたがわないもの。
いわゆる凡夫の世界の諸々の善根、それによっておこる結果は、因であれ果であれ、みな本末を顛倒てんどうし、みな虚偽きょぎである。だからこれを真実でない功徳というのである。〔化本p.338〕

 二には、菩薩の智慧による清浄の業にもとづいて、仏の衆生教化の事業を立派に行われた功徳である。これは存在の道理にしたがい、清浄の相にかなっている。この法は顛倒てんどうせず、虚偽きょぎがない。これを真実の功徳というのである。

聖全Ⅰp285 往生論註


 どのように顛倒てんどうしないかといえば、存在の道理にしたがい、二諦に順じているからである。どうして虚偽きょぎがないかといえば、衆生をつつみとって、かならず仏道のきわまりである浄土に入らしめるからである。
 「願偈を説いて総持そうじして、仏教と相応す」とは、「持」は散ぜず、失わないことをいう。「総」は少によって多をつつみとることをいう。

「偈」とは五言の句をいくつかつらねた韻文である。

「願」とは往生をこいねがうことをいう。

「説」とは諸々の偈と論とを説くことをいう。
 まとめてこれをいえば、往生を願ううたを説くことによって、

仏の経をまとめて身につけ、「仏の教えと相応する」のである。「相応」とは、たとえばはこふたとがぴったりあうようなものである。〔行p.170〕


九 観察門

①仏国土の荘厳

『解読浄土論註』40頁

1 清浄性(清浄功徳) 
彼の世界の相を観ずるに、三界さんがいの道に勝過しょうがせり。

 これより已下は第四の観察門である。この門の中を分けて二つに区別する。
 一には、器世間きせけんの荘厳の成就を観察する。
 二には、衆生世間しゅじょうせけんの荘厳の成就を観察する。

 この句より已下「願わくは、かの阿弥陀仏国あみだぶっこくに生まれん」というまでは、器世間きせけんの荘厳の成就を観察するところである。中をまた分けて十七に区別する。その名目は一一の文に至ってつけることにする。

 この二句は即ち第一の事がらであって、観察荘厳清浄しょうじょう功徳成就と名づける。この清浄功徳は十七を総じてのすがたである。
 仏がもと、この荘厳清浄功徳を起された所以わけは、三界を見られるに、虚偽きょぎにみち、流転し、輪廻りんねきわまることがない。そのすがたはあたかも、尺とりむしがめぐり歩くようであり、また、かいこがまゆをつくって自らをしばっているようである。ああ何と哀れなことであろうか、衆生はこの三界の顛倒てんどうの不浄に束縛そくばくされている。そのすがたを見られ、衆生を虚偽きょぎなく、流転せず、無窮むきゅうでない処に安住あんじゅうさせ、絶対安楽の大清浄の処を得させようとねがわれたのである。だからこの清浄荘厳功徳を起されたのである。

 「成就」とは、(如来の清浄の徳が衆生の場所にはたらくことをいう)この清浄は破壊できず、けがれに染めることができない、三界のようにけがれに染まり、破壊されているすがたとは全くちがう、ということである。
 「観」とは(仏智で)観察(すること)である。
 「彼」とは彼の安楽国である。
 「世界相」とは彼の安楽世界の清浄の相である。その相については別に下にのべられている。

聖全Ⅰp286 往生論註


 「勝過三界道」の「道」とは通である。これこれの原因によってこれこれの結果を得、これこれの結果によってこれこれの原因にむくいるというように、原因を通して結果に至り、結果を通して原因に酬いるから「道」と名づけるのである。
 「三界」とは、
 一には欲界、いわゆる六欲天・四天下の人・畜生・餓鬼・地獄などがこれである。
 二には色界、いわゆる初禅・二禅・三禅・四禅の天などがこれである。
 三には無色界、いわゆる空処・識所・無所有所・非想非非想処の天などがこれである。
 この「三界」は、およそ生死の凡夫の流転きわまりない闇のすみかであって、苦楽に多い少ない、寿命に長い短いの差がわずかばかりあるとはいえ、すべてこれを観るに、煩悩のけがれのないものはない。わざわいと福とはあいりよられ、互いに重なり、いつはてるともなくめぐり、雑然たる生を触受うけて、四顛倒してんどうに長く拘束されている。因も果も虚偽きょぎのすがたをくりかえしているのである。

 安楽浄土は、菩薩の慈悲の正観より生じ、如来の不思議な力と本願によって建てられたのである。胎生・卵生・湿生などは、これによってはるかに去り、業の繋縛けばくの長い綱はこれによって永久に断たれるのである。衆生を救おうとする続括の方便は、諸仏の勧めをまたずにおこされ、労を自分の功積にせず、善く人に譲ることは、普賢菩薩ふげんぼさつとならんでその徳を同じくするのである。
 「三界に勝過」してとは、そもそも、われわれの手近かにいわれたことばである。

器世間きせけん衆生世間しゅじょうせけん
 器は衆生に受用せられるものの意。故に器世間きせけんとは山河・大地・草木など衆生に受用せられる世界。対して衆生世間しゅじょうせけんとは、有情を構成している心身の世界。

二十九種にじゅうくしゅ荘厳『真宗新辞典』より
 世親の浄土論に説く浄土のうるわしい相。国土・仏・菩薩の三種荘厳に大別され、三厳二十九種ともいう。国土の荘厳に、清浄、量、性、形相、種種事、妙色、触、三種(水・地・虚空)、雨、光明、妙声、主、眷属、受用、無諸難、大義門、一切所求満足功徳の17種、仏の荘厳に、座、身業、口業、心業、大衆、上首、主、不虚作住持功徳の8種、菩薩の荘厳に不動遍至、時遍至、無余供養、遍示三宝功徳の4種がある。
依報の国土荘厳を器世間きせけん清浄、正報の仏・菩薩荘厳を衆生世間しゅじょうせけん清浄といい、二種清浄という。
浄土三部経に根拠を求め、摂大乗論釈により種別したといわれる。
曇鸞の論註には、二十九種荘厳の意義について、大悲の願心から起こり、仏威神力の現れとして、観察門の意味を願力仏力の観知信知に求めている。

依報えほう正報しょうほう『真宗新辞典』より
 まさしく過去の業のむくいとして得た身を正報しょうほう、その身が依りどころとする環境を依報えほうといい、合わせて依正二報と称する。報とは自らの業が招いたむくい(果報)。
器世間きせけん衆生世間しゅじょうせけん。「衆生の依報の処なり、また衆生の所依処と名く」〔序義〕。「此の生死三界等の自他の依正二報」〔散義〕「依正二報滅亡し」〔末讃〕の左訓「ひとのいのちももてるものも」。
②浄土の依正二報。阿弥陀仏とその浄土の荘厳功徳について、依報に17種の国土荘厳功徳、正法に8種の仏荘厳功徳と4種の菩薩荘厳功徳があるとし、これらは、因にかえしていえば弥陀の因位たる法蔵菩薩の願心におさまり、三厳二十九種の広は真如法性たる一法句いっぽっくの略と広略相入すると説く〔論〕。善導は、依報に地下・地上・虚空の三荘厳、正報に主・聖衆の二荘厳を分け、依正それぞれに通別、真仮を分け〔玄義〕、依正二厳ともいう〔定義、散義〕、依報を依果ともいい、「無漏の依果」〔讃偈-浄讃〕の左訓「えほうのくわほう」。「安楽仏土の依正」〔浄讃〕の左訓「えほうは よろづのほうじゅ ほうち よろづのかざりなり、すべてのかざりのななり、しゃうほうは われらがごくらくにまいりなば じんづじざいになるをいうなり」。

荘厳 『真宗新辞典』より
 身や国土をおごそかにかざること、身口意の三業をととのえて清浄にすること。阿弥陀仏の浄土は法蔵菩薩の四十八願等の清浄願心により荘厳されたもので、その功徳成就について依報である器世間きせけんに17種の国土荘厳。正報である衆生世間しゅじょうせけんに8種の仏荘厳(主荘厳)と4種の菩薩荘厳(伴荘厳)を数える。

功徳 『真宗新辞典』より
 修行の功により積まれた徳。世間・出世間。大・小。有漏・無漏。有相・無相。不実・真実などの別がある。
 往生の業について、念仏と諸行の功徳の別(大経)、九品の差異(観経)、多善根と少善根の別(小経)をあげる。
 弥陀の名号について、「真実功徳ともうすは、名号なり」(p.543 一念多念文意)「広く功徳の宝を施せん」(p.025大経p.157行)「阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎するがごとく」(p.130小経)「真実功徳相というは、真実功徳は誓願の尊号なり」(p.51銘文)「一切の功徳にすぐれたる南無阿弥陀仏をとなうれば」(p.487浄讃)「功徳の宝海みちみちて」(p.490高讃)など、という。

四顛倒してんどう
 常・楽・我・浄の四顛倒てんどう。これに有為の四顛倒てんどうと無為の四顛倒てんどうとがあるが、いまは有為の四顛倒てんどうのこと。無常の世界を常住と思い、苦の世界を楽と執し、無我の法を我と考え、不浄の世界を清浄とみていること。

胎卵湿生たいらんしっしょう
 胎生たいしょう卵生らんしょう湿生しっしょうのこと。これに化生けしょうをくわえて四生ししょうという。四生とは、衆生のあり方を生れる状態によって四つに分類したもので、これによって衆生の輪廻転生を説く。胎生とは人や牛馬の如く、母胎内で身体の各部を備えて生れてくるもの。卵生とは鳥類の如く、卵で生れてのち孵化ふかするもの。湿生とはアメーバーの如く、湿気によって(細胞分裂)生れてくるもの。化生とは天上界のごとく、父母の因縁によらず忽然と生れるもの。今、化生をいわないのは、和讃に「正覚の華より化生して」とある如く、化生には真実報土に往生する正覚の化生があるので、それとの混乱をさけるため略したものとも考えられるが、胎卵湿生とあるなかには、忽然と生ずる化生も含まれている。


『解読浄土論註』46頁

2 無量性(りょう功徳)
究竟くきょうして虚空こくうのごとく、広大にして辺際へんざいなし。

 この二句は荘厳りょう功徳成就と名づける。
 仏がもと、この荘厳りょう功徳を起された所以わけは、三界を見られるに、狭く小さく、土地のくぼんだところや裂けたようなところがあるかと思えば、少しばかり盛り上がったところやふくれたようなところがある。或いは宮殿の髙どのはせまくきゅうくつであり、土地田畠はせまってせまくるしい。また、どこかへ行こうとしても路はせまく、或いは山や河が行く手をはばみさえぎり、或いは国境にへだてられて行くことができない。このように、さまざまのせわしく急なことがある。
 だから菩薩はこの荘厳りょう功徳の願いをおこされ、我が国土は虚空の如く広大で辺際ほとりがないようにと願われたのである。
 「虚空こくうの如し」とは、この国に来生する者の数がいかにおおくても、なお無いにひとしいようだという意味である。
 「広大にして辺際なし」とは、上の虚空こくうの如しという意味を全とうするものである。つまり、どうして虚空のようかといえば、広大で際限がないからである。

聖全Ⅰp287 往生論註

 りょう功徳の成就とは、十方衆生の中の往生する者━すでに往生したもの、今往生するもの、これから往生すべきもの━は量りなく、はてしなくあっても、つづまるところつねに虚空のように広大で際限なく、ついに満ちてしまうときがないということである。
 だから「究竟くきょうして虚空こくうの如く、広大にして辺際なし」というのである。
 問う。維摩居士ゆいまこじなどは、小さな部屋に、高さ八万四千由旬の師子座を三万二千つつみ入れて、なお余りがあるという。どうして国のさかいのはかりないところにかぎって広大と称するのか。
 答う。ここにいう広大は、かならずしも五十畝をけいといい、三十畝をえんというような場所の広さをたとえにしているのではない。ただ空のようだというのである。そのうえにどうして部屋の広さなどのたとえにかかずらう必要があろうか。
 また維摩ゆいまの部屋がつつみいれるのは、狭いところにあって広いのである。厳密に結果の優劣を論ずれば、どうして広いところにあって広いというのに及ぼうか。


『解読浄土論註』52頁

3 大慈悲(しょう功徳) 
正道しょうどうの大慈悲は、出世の善根より生ず。

 この二句は、荘厳しょう功徳成就と名づける。〔真p.314〕

 仏はもと(因位の菩薩のとき)、どうしてこの(浄土の性(大慈悲)の)荘厳を起したもうたかといえば、ある国土を見られるに、愛欲によっての故に欲界があり、禅定を修して高上しようとして欲界に厭うことによって色界・無色界がある。この三界はすべて煩悩にとらわれており、よこしまな道によって生じたものである。人々は大きな迷いの夢の中にぐっすり寝こんでいて、覚めることがあろうなどとはまったく知らないのである。
 だから仏は大悲の心をおこしたもうて、私が仏と成るには、この上ない正見の道をもって、清浄な国土を起し、人々をこの三界から出させようと願われたのである。

 「しょう」とは「もと」という意味である。つまり、この浄土は法性ほっしょうにしたがい、法の根本(不生の理)にそむかないものであるということである。このことは、『華厳経』の宝王如来性起品ほうおうにょらいしょうきぼんに説かれている如来の性起しょうきの意義と同じである。
 「しょう」は「積習成性しゃくじゅうじょうしょう」、(ぎょうを)積み習って性を成ずるのである。これは法蔵菩薩を指している。法蔵菩薩は、諸々の波羅蜜を集め、それを積み習い練って、この浄土を成じたもうたのである。

 また、「しょう」とは「聖種性しょうしゅじょう」のことである。はじめ法蔵菩薩は、世自在王仏のみもとにあって、無生法忍をさとられたが、この時の位を聖種性しょうしゅじょうと名づける。法蔵菩薩は、このしょうの位のうちにあって、四十八願をおこし、この土を修起しゅきせられた。即ちこれを安楽浄土というのである。この浄土は、彼の聖種性しょうしゅじょうにおける発願によって得られた結果の中に、その原因を説くから、「しょう」と名づけるのである。

 また、「しょう」とは「必然ひつねん」の意味であり、不改ふがいの意味である。たとえば、海のしょうは一味であって、いろいろな流れが入ってくれば、必ず一味となり(必然)、海の味はそれらによってわることがない(不改)。また人の身のしょうは不浄であるから、

聖全Ⅰp288 往生論註

いろいろの素晴らしい色や香り、美味おいしいものでも、身体に入ればすべて不浄となるようなものである。安楽浄土は諸々の往生する者に、不浄の身もなく、不浄の心もない。つまるところすべて清浄で平等な無為法身を得るのである。それは安楽国土のしょうがまっとうされているからである。

 「正道しょうどうの大慈悲、出世の善根より生ず」とは平等の大道である。もとより平等の道であるからこういうのである。正道しょうどうと名づけられるわけは、平等とは諸法の根本の相であって、諸法が平等であるから、法蔵菩薩の発せられた願心は平等である。発せられた願心が平等であるから、修行の道は平等である。道が平等であるから大慈悲である。大慈悲こそは仏道の正因である。(だから平等の道を正道しょうどうというのである。)

 さらに「正道しょうどうの大慈悲」というのは、慈悲にはそれを起すのに三種の縁がある。
  一には、衆生を縁として起す慈悲。これは小悲である。
  二には、法を縁として起す慈悲。これは中悲である。
  三には、縁なくして起す慈悲、これが大悲である。
 大悲は即ち出世の善である。安楽浄土は、この大悲より生ずる。だからこの大悲をもって浄土の根本とするのである。
 だから、「出世の善根より生ずる」というのである。〔真p.314-315〕


『解読浄土論註』56頁

4 形相ぎょうそう(形相功徳)
浄光明満足じょうこうみょうまんぞくすること、鏡と日月輪にちがつりんとのごとし。

 この二句は荘厳形相ぎょうそう功徳成就と名づける。
 仏がもと、この荘厳形相ぎょうそう功徳を起したもうた所以わけは、日が四域に行きわたるのを見るに、一方に光がそそぐときは、他の三方に光がとどかない。また宅内にあって庭で大きな火をたいて明りをとっても十しんにも満たない。
 このようなわけだから、清浄な光明を満足しょうとの願いを起したもうたのである。日や月の光が、それ自体において満足しているように、彼の安楽浄土は、広大でほとりがないとはいえ、清浄の光明が充満して、いたらぬところとてない。
 だから「浄光明満足じょうこうみょうまんぞくすること、鏡と日月輪にちがつりんとのごとし」というのである。


『解読浄土論註』59頁

5 種々事しゅじゅじ物(種々事功徳)
もろもろの珍宝ちんぼうしょうを備えて、妙荘厳みょうしょうごんを具足せり。

 この二句は荘厳種々事しゅじゅじ功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの荘厳を起したもうたかといえば、ある国土を見られるに、泥や土で宮殿を飾り、

聖全Ⅰp289 往生論註

木や石で華麗かれい楼閣ろうかくをつくっている。或いは金をかざり、玉をちりばめてあるが、思うように願いを満たすことができない。或いは造営のため、あらゆるものを完備しようとすれば、さまざまの辛苦を受けるのである。
 このようなわけだから、大悲の心を興したもうて、私が仏と成るには、必ず珍らしい宝物が充分にそなわり、荘厳華麗かれい、しかも自然であって、宝の充分すぎるという満足の心も忘れて、それがおのずから仏道を成就する満足とならしめたい、と願われたのである。
 この荘厳のさまは、たとい毗首羯磨びしゅかつまが細工に妙絶であると言っても、彼がどれほど思案を積み、想いをつくしても、どうしてよく、それを、うつしとることができようか。
 「しょう」とはさきにのべたように根本という意味である。根本たる願心がすでに清浄である以上、それから生まれた荘厳が、どうして清浄でないことがあろうか。だから『経』(維摩経ゆいまきょう卷上)に言っている。「その心が浄らかであれば、仏土は浄らかである、」と。
 だから「もろもろの珍宝ちんぼうしょうを備えて、妙荘厳みょうしょうごんを具足せり」というのである。


『解読浄土論註』62頁

6 妙なる色(妙色みょうしき功徳)
無垢むく光炎熾こうえんさかんにして、明浄みょうじょうにして世間をかがやかす。

 この二句は、荘厳妙色みょうしき功徳成就と名づける。

 仏はもと、どうしてこの荘厳を起したもうたかといえば、ある国土を見られるに、優れたところとか劣ったところとかがあって同じでない。同じでないから尊いとか賤しいとかという形ができる。尊い賤しいという形ができれば、是非を争うことになる。是非の争いが起きれば、いつまでも三界にしずむことになる。
 だから大悲の心を興して、平等であらしめたいという願いを起されたのである。願わくば、私の起す国土は光明が炎のように盛んであり、すべての中の第一であり、くらべるものもなく、人天の所有する金色は、それよりもすぐれたものにあえば、光を奪われてしまうが、そのような光ではないように、と
 相い奪うとは、どういうことかといえば、よくうつる鏡も金のそばにおけば光を現じない。今の時代の金を仏在世の時の金と比べれば、今の時代の金は光を現じない。仏在世の時の金も閻浮那えんぶなの金と比べれば光を現じない。その閻浮那えんぶなの金も大海の中の転輪王てんりんおうの道中の金沙と比べれば光を現じない。その転輪王てんりんおうの道中の金沙も金山と比べれば光を現じない。その金山も須弥山の金と比べれば光を現じない。その須弥山の金も三十三天の瓔珞ようらくの金と比べれば光を現じない。その三十三天の瓔珞の金も炎摩天の金と比べれば光を現じない。その炎摩天の金も兜率陀天とそつだてんの金と比べれば光を現じない。その兜率陀天とそつだてんの金も化自在天の金と比べれば光を現じない。その化自在天の金も他化自在天の金と比べれば光を現じない。

聖全Ⅰp290 往生論註

その他化自在天の金も安楽国の中の光明と比べれば光を現じなくなるのである。
 どうしてかといえば、彼の安楽国土の金光は、よごれた業より生ずることが全くたえはてているから、清浄なる輝きが成就しないところがないのである。もともと安楽浄土は、無生忍をさとられた法蔵菩薩の清浄な業によって起されたものであって、阿弥陀如来法王がすべておられるところである。このように阿弥陀如来を増上縁とするので、「無垢むく光炎熾こうえんさかんにして、明浄みょうじょうにして世間をかがやかす」といわれるのである。
 「世間をかがやかす」とは、器世間きせけん(環境)・衆生世間しゅじょうせけん(人の生きるところ)の二種世間をかがやかすのである。 

妙色みょうしき功徳
 先の形相ぎょうそう功徳では、浄土の体そのものが光明を満足していることを明かしているが、この妙色みょうしき功徳では浄土の色相が光明であることを明かす。この場合の色とは、われわれの観念では物質という概念に近いが、浄土の色はそのような観念を超え、無比であるから妙色みょうしき功徳といわれる。


『解読浄土論註』67頁

7 柔軟さ(そく功徳)
宝性功德ほうしょうくどくの草、柔軟にゅうなんにして左右にめぐれり、ふれるるもの勝楽しょうらくを生ずること、迦旃隣陀かせんりんだに過ぎたり。

 この四句は荘厳そく功徳と名づける。
 仏はもと、なぜこの荘厳を起したもうたかといえば、ある国土を見られるに、金や玉を宝として重んじているが、それを衣服とすることはできない。よくうつる鏡を珍らしがってもてあそんでいるが、それを敷具にあてがうことはできない。つまりこれらによって目をよろこばせることはできても、身を便利にすることはできないのである。このようであっては、身と眼の二つのはたらきは、どうして矛盾しないことがあろうか。
 だから願うて言われるには、我が国土の人天の六根は水と乳のように和合し楚と越のようなわずらわしさをすっかりなくしよう、と。だから七宝は柔軟であって、目を悦ばせ身を便利にするのである。
 「迦旃隣陀かせんりんだ」とは、インドの柔軟な草の名である。これに触れる者は楽しみを生ずることができる。だからたとえとしたのである。
 註者(曇鸞)がいう、この世の土・石・草・木は、それぞれ定まった体がある。訳者は何の理由で浄土の宝を草にたとえたのか、おそらく、草が風をうけるさまが、ひるがえり、めぐっているものだから、草を宝にあてはめただけのことであろう。私がもし翻訳に参加していたなら別の方途があったであろう。
 「勝楽を生ずる」とは、迦旃隣陀かせんりんだふれれば、煩悩の執着をます喜楽を生ずる。彼の浄土の柔軟な宝に触れば、法を喜ぶ楽を生ずる。二つの事はとおく、へだたっている。すぐれていなくてどうしようか。
だから「宝性功德ほうしょうくどくの草、柔軟にゅうなんにして左右にめぐれり、ふれるるもの勝楽しょうらくを生ずること、迦旃隣陀かせんりんだに過ぎたり」と言うのである。


『解読浄土論註』72頁

聖全Ⅰp291 往生論註

8 水・地・虚空(三種功徳)
8-①水(水功徳)
宝華千万種ほうけせんまんじゅにして、池・せん弥覆みふせり。
微風みふう華葉けようを動かすに、交錯きょうしゃくして光乱転ひかりらんでんす。

 この四句は荘厳すい功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの願いをおこされたかといえば、ある国土を見られるに、川や海の水が大波をたて、にごり泡だって人々を驚かせたり、流水が迫り来って人々をとじこめおびやかしたりする。このような事態に向うと、安らかな悦びの心もなくなり、あとからふりかえってみると、恐怖の思いをいだくのである。
 菩薩はこれを見られて大悲の心を興され、私が仏と成るにはあらゆる水の流れや池や沼は宮殿にふさわしくととのい、[このことは経(大経)の中に出ている]種々の宝花がしきつめられて水面を飾り、そよ風がその上をやわらかく吹き、光がきらきら輝きあうこと秩序正しく、見るものの心をはればれとさせ、身体をよろこばせて、何一つ意にそわないことの無いようにしよう、と願われたのである。
 だから「宝華千万種ほうけせんまんじゅにして、池・せん弥覆みふせり。微風みふう華葉けようを動かすに、交錯きょうしゃくして光乱転ひかりらんでんす」と言われるのである。


『解読浄土論註』74頁

8-②地(地功徳)
宮殿くでん・もろもろの楼閣ろうかくにして、十方じっぽうること無碍むげなり。
雑樹ぞうじゅに異の光色あり、宝蘭遍ほうらんあまね囲繞いにょうせり。

 この四句は荘厳功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの荘厳を起したもうたかというと、ある国土を見られるに、けわしくそびえたつ山々があり、その嶺には枯木が横たわり、形のととのわない山々が底無しの谷をいだいて連なり、雑草が谷一杯におい繁っている。はてしない大海原は見わたす限りつづき、雑草がむなしく風になびく広い沢は、誰一人足をふみいれたことがない。
 菩薩はこれを見られて大悲の願いをおこされ、我が国土は土地が平らなことたなごころのように、宮殿の楼閣にあってみれば鏡のように十方がおさまって、まさにくところなく、また属かないというのでもなく、宝の樹々とそれらをとりまく宝の蘭とは、互いにてらしあうように、と願われたのである。
 だから「宮殿くでん・もろもろの楼閣ろうかくにして、十方じっぽうること無碍むげなり。雑樹ぞうじゅに異の光色あり、宝蘭遍ほうらんあまね囲繞いにょうせり」と言われるのである。


『解読浄土論註』77頁

聖全Ⅰp292 往生論註

8-③虚空(虚空功徳)
無量の宝交絡きょうらくして、羅網虚空らもうこくうへんぜん。
種種のすずひびきを発して、妙法みょうほうの音をかん。

 この四句は荘厳虚空こくう功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの荘厳を起されたかというと、ある国土を見られるに、煤煙やちりが大空をおおいかくし、雷が稲光とともに大雨をふらせ、不吉な天火や虹がことごとに空からやってきて心配がかさなり、ために身の毛もよだつ思いがするのである。
 菩薩はこれを見られて大悲の心を興され、我が国土には宝でおりなした羅網あみが大空一杯にひろがり、その羅網につけられた大きな鈴が五音の旋律をかなでて、仏道の法音を説き、これを見てあきることなく、仏道のことをおもい、その徳が身にそなわるように、と願われたのである。
 だから「無量の宝交絡きょうらくして、羅網虚空らもうこくうへんぜん。種種のすずひびきを発して、妙法みょうほうの音をかん」と言われるのである。


『解読浄土論註』80頁

9 花衣けえらす(功徳)
花衣けえ荘厳しょうごんり、無量の香普こうあまねくくんぜん。

 この二句は荘厳功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの荘厳を起されたかというと、ある国土を見られるに、衣服を地にしいて尊敬する人をまねこうとしたり、香り高い花や名宝によってうやまいの心を表そうとしたりするが、善業がとぼしく果報がまずしいので、このことを成しとげることができない。
 だから大悲の願いを興され、我が国土には、つねにこれらの物(衣服や花や名宝)が雨ふって、人々のこころを満足させよう、と願われたのである。
 なぜ雨ということばで表現するかといえば、恐らく文にとらわれる者は云うであろう。もしつねに花や衣がふってくるなら、大空はそれらのもので満ちふさがれてしまうはずなのに、どうしてさしつかえがないのか、と。だからこそ雨ということばによってたとえるのである。雨は時にかないさえすれば大水の心配はない。安楽国土の果報に、どうしてそのように心をわずらわすものがあろうか。
 『経』(大経と小経)にいわれている。「日夜六たび宝衣が雨ふり、宝花が雨ふる。その宝の質は柔軟で、その上を踏めば四寸ばかりさがり、足をあげるにしたがってまたもとにもどる。用がすめば、あたかも水が穴の中に流れ入るように、地中に入っていく。」と
 だから「花衣けえ荘厳しょうごんり、無量の香普こうあまねくくんぜん」と言われるのである。


『解読浄土論註』82頁

聖全Ⅰp293 往生論註

10 光明こうみょう(光明功徳)
仏恵明浄ぶつてみょうじょうなること日のごとくにて、世の痴闇冥ちあんみょうを除く。

 この二句は荘厳光明こうみょう功徳成就となづける。
 仏はもと、どうしてこの荘厳を起されたかというと、ある国土を見られるに、人々の項背うなじには円光があるのだが、無知の愚かさのためにくらまされている。
 だから願って、我が国土のあらゆる光明は、よく愚痴の闇を除いて、仏の智慧に入らしめ、無利益におわることのないように、と言われたのである。
 また安楽国土の光明は如来の智慧より生ずるのだから、世間の闇冥くらさを除くことができる、とも云われている。
 『経』(維摩経ゆいまきょう)に言われている。「或は仏土があって光明によって衆生利益の事業をなす」と。即ちこれがそうである。
 だから「仏恵明浄ぶつてみょうじょうなること日のごとくにて、世の痴闇冥ちあんみょうを除く」と言われるのである


『解読浄土論註』85頁

11 妙なる声(妙声みょうしょう功徳)
梵声ぼんしょう悟深遠さとりじんのんにして、微妙みみょうなり、十方に聞こゆ。

 この二句は荘厳妙声みょうしょう功徳成就となづける。
 仏はもとどうしてこの願いをおこされたかというと、ある国土を見られるに、い法があっても、その名高は遠くまでとどかない。名声があって遠くにとどいたとしてもまた微妙でない。名声があり、微妙でしかも遠くに及んだとしても、衆生を悟らせることができない。
 だからこの荘厳をおこされたのである。
インドでは浄らかな行を「梵行ぼんぎょう」といい、たえなることばを「梵言」という。かの国では梵天を貴び尊重するから、たびたび「梵」ということばをめことばとするのである。またインドの法は梵天と通じているからであるともいわれる。
声とはなのりということである。名とは安楽浄土の名をいう。
『経』(大経)に言われている。「もし人が安楽浄土の名を聞いて往生したいと願いさえすれば、願いとおりになる」と。これは名が衆生をさとらせるということのあかしである。
『釈論』(智度論)に言われている。「このような浄土は三界につつみいれられるものではない。どうしてそう言えるかといえば、浄土は欲がないから欲界でない。地に居住するから色界でない。かたちがあるから無色界でない。およそ浄土は菩薩独自の業によって建立されたものにほかならない。」と。
有を超えて、しかも有のままにあるのを「微」という。名がよく悟りを開かしめることを「妙」という。だから「梵声ぼんしょう悟深遠さとりじんのんにして、微妙みみょうなり、十方に聞こゆ」と言われるのである。


『解読浄土論註』88頁

聖全Ⅰp294 往生論註

12 主なる力(主功徳)
正覚しょうがく阿弥陀法王あみだほうおう住持じゅじしたまえり。

 この二句は荘厳しゅ功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの願いをおこされたかというと、ある国土を見られるに、鬼が君主となっている。だからその所領しょりょうでは互いに相手をとってくうありさまである。ところが転輪王てんりんおう宝輪ほうりんが宮殿にとどまれば、四域みな心配がなくなる。これをたとえて風になびくというのである。だから国はその主にもとづくのである。
 だから願いをおこされ、我が国土にはとこしえに法王ダルマがましまして、法王の善根ぜんごんの力によっておさめたもたれるように、と願われたのである。
 「住持じゅじ」とは、たとえば(黄鵠こうこくという名の)鶴が(生命をすてて、恩人のすでに死した)子安しあんのことを念じつづけていたら、千年の命をえてよみがえったといい、魚の母が子(卵)のことを念じつづければ、冬の水枯れの時期を経ても死なないというようなものである。安楽国は正覚さとりによってくその国をたもっている。どうして正覚をあらわさないものが存在しようか。
 だから「正覚しょうがく阿弥陀法王あみだほうおう住持じゅじしたまえり。」と言うのである。


『解読浄土論註』90頁

13 仏の仲間(眷属功徳)
如来浄華にょらいじょうけしゅうは、正覚しょうがくの花より化生けしょうす。

 この二句は荘厳眷属けんぞく功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの願いをおこされたかというと、ある国土を見られるに、血ぬれた胎内を身の器とし、糞や尿を生きる元とし、或いは三公九卿さんこうきゅうけいといった高い家柄でも、人をうらやみ、ねたむ生活をする子がでたり、下働きの女性から卓越した才をもった子が生まれたりする。これがためにそしられて火をいだく思いをし、恥辱ちじょくされて氷をいだく思いをするのである。
 だから願って、我が国土ではすべてのひとびとが如来の浄らかな花の中より生まれ、眷属はらからすべてが平等であって、さべつする、てずるのないようにしたい、と言われたのである。
 だから「如来浄華にょらいじょうけひとびとは、正覚しょうがくの花より化生けしょうす。」といわれるのである。


『解読浄土論註』93頁

14 仏法の受用じゅゆう(受用功徳)
仏法ぶっぽうの味を愛楽あいぎょうし、禅三昧ぜんざんまいじきとす。

 この二句は荘厳受用じゅゆう功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの願いをおこされたかというと、ある国土を見られるに、鳥の巣を探して卵を破り食のそなえとしたり、砂袋を壁にかけ、それを指してうえをいやす方法としたりしている。ああ諸子しょしよ、実に心痛むではないか。

聖全Ⅰp295 往生論註


 だから大悲の願いをおこされ、我が国土は仏法を、三昧を食とし、永久に他の食物のわずらいを絶つように、と願われたのである。
 「仏法ぶっぽうの味を愛楽あいぎょうし」とは、たとえば日月灯明仏にちがつとうみょうぶつが『法華経』を説かれたとき六十小劫かかった。そのとき集った聴衆もまた一つの処に六十小劫坐ったままだったが、あたかも食事の時間のように思え、一人として身や心に倦怠けんたいを生ずることがなかった、というようなものである。
 「禅定を以て食と為す」とは、諸々の大菩薩はつねに三昧にあって他の食が不要である、というのである。
 「三昧」とは、かの浄土の諸々の人天が食事をしようとするときには、百味にのぼるおいしい料理がずらりと前にならぶが、眼でそれらの色を見、鼻で香をかいで、身にこころよいよろこびを受けて自然に満足する。それがおわれば消え去る。もしまた食事の必要があれば、再び現れる、ということである。この事は経(大経)にのべられている。
 だから「仏法ぶっぽうの味を愛楽あいぎょうし、禅三昧さとりじきとす」と言われるのである。


『解読浄土論註』96頁

15 苦難を超える道(無諸難功徳)
永く身心の悩みをはなれて、らくを受くることつねひまなし。

 この二句は荘厳無諸難むしょなん功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの願いを起されたかというと、ある国土を見られるに、あしたには天子の恩寵おんちょうをこうむってよろこんだ者が、ゆうべには重罪の刑におののき、或は幼いとき草の中へ捨てられていたものが、長じては一じょう四方の料理を食卓に並べるという富者ふしゃぶりであったり、あしぶえを鳴らし勇んで門出かどでしたものが、各地をへめぐって、やむなく、もどってこなければならなかったりする。このように種々の、ちぐはぐなことがある。
 だから願って、わが国土では安楽がいつまでも続いて全くとだえることがないように、と言われたのである。
 「身の悩み」とは飢渇きかつ・寒さ熱さ・殺害にあうことなどである。
 「心の悩み」とは是非ぜひのあらそい・得失とくしつ三毒さんどくむさぼり・いかり・無知)などである。
 だから「永く身心の悩みをはなれて、らくを受くることつねひまなし」と言われるのである。


『解読浄土論註』99頁

16 平等の道(大義門功徳)
大乗善根だいじょうぜんごんさかい、等しくして譏嫌きげんの名なし、女人にょにんおよび根欠こんけつ、二乗の種、生ぜず。

 この四句は荘厳大義門だいぎもん功徳成就と名づける。
 門とは大義だいぎの門に通ずるということである。大義とは大乗の所以いわれのことである。たとえば人が城を造った場合、門が完成すれば中へ入ることができるように、もし人が安楽国に生まれることができれば、それが大乗の門を完成したことになるのである。
 仏はもと、どうしてこの願いをおこされたかというと。

聖全Ⅰp296 往生論註

ある国土を見られるに、仏如来・賢者・聖者しょうじゃなどのひとびとがおられても、国がにごっているから、一乗を三乗(声聞しょうもん縁覚えんがく・菩薩)として説かれている。また色目をつかうことによってとがめられるような事態がおこったり、指で語することによって、そしりをまねいたりしている。
 だから願って、我が国土はことごとく大乗一味、平等一味であらしめたい、また芽を出す力のない種子(二乗)は一粒だにも生ぜしめず、女人とか残欠ざんけつとかいう名字ことばさえまったく絶やしてしまおう。と言われたのである。
 だから「大乗善根だいじょうぜんごんさかい、等しくして譏嫌きげんの名なし、女人にょにんおよび根欠こんけつ、二乗の種、生ぜず。」と言われるのである。


『解読浄土論註』103頁

 問い。王舎城おうしゃじょうで説かれた『無量寿経』(大経)をひもとくに、法蔵菩薩の四十八願の中にいわれている。「たとい私が仏となっても、国の中の声聞しょうもんにかぎりがあって、その数を知るようであれば、正覚さとることをしまい」(第十四願、声聞無数の願)と。これは安楽国に声聞しょうもんが存在する第一のあかしである。
 また『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』の中で、龍樹菩薩は阿弥陀仏をたたえるうたを造って云われている。「三界の牢獄を超え出て、目がはすの花びらのような声聞しょうもんの人々はかぎりなくおられる。だから、うやまって礼拝する」と。これは声聞しょうもんが存在する第二の証である。
 また『摩訶衍論まかえんろん』(智度論)にいわれている。「仏土は種々あって同じでない。ある仏土はもっぱら声聞しょうもん僧だけがおり、ある仏土はもっぱら菩薩僧ばかりである。またある仏土は菩薩と声聞しょうもんとがあつまって僧を形成している。たとえば阿弥陀仏の安楽国などがこれである。」と。これは声聞しょうもんが存在する第三の証である。
 いろいろな経典で安楽国について説かれている箇所には、多くの場合、声聞しょうもんが存在すると言って、声聞しょうもんが存在しないとは言っていない。声聞しょうもんは即ち二乗の一つである。ところが『浄土論』では「二乗の名さえない」と言われている。これはどのように理解したらいいのか。

 答え。理を推せば、安楽浄土には二乗が存在するはずがない。どうしてこう言うかといえば、大体病があればこそ薬があるというのが道理というものだからである。
 『法華経』に言われている。「釈迦牟尼如来は五濁の世に出られたからこそ、一乗を三乗に分けて説かれたのである」(方便品)と。浄土はすでに五濁でないのだから、三乗がないことは明らかである。
 さらに『法華経』に言われている。「声聞しょうもんの人々はどういう点で解脱を得ているか。ただ虚妄こもうを離脱した点で解脱というのである。この人は本当はまだすべてのものからの解脱を得ていない。この上ないさとりに達していないからである。」(譬喩品)と。当然この理をおせば、声聞しょうもんのさとりたる阿羅漢あらかんは、まだすべてのものからの解脱を得ていないのだから、

聖全Ⅰp297 往生論註

必ず生れるということがあるはずである。しかしこの人は再び三界に生まれることはない。三界の外に浄土を除いて再び生まれる処はない。だからひとえに浄土に生れるしかないのである。
 声聞しょうもんと先ほどから言っているのは、他方の世界の声聞しょうもんが浄土に来り生れるのを、もとの名によるから声聞しょうもんとよんでいるのである。たとえば帝釈天たいしゃくてんは、むかし人間の世界に生れたとき、姓を憍尸迦きょうしかといったが、後に天上の主となっても、仏は人々にその由来を知らせようとおもわれ、帝釈天と語りあわれるときは、もとのまま憍尸迦きょうしかとよばれたようなものである。いまもこのたぐいである。
 またこの『浄土論』には、ただ「二乗の種は生じない」とだけいわれている。つまり安楽国には二乗の種子は芽をださないというのである。どうして二乗が来り生れることまで、こばむことがあろうか。
 たとえばみかんの樹は江北には生じないが、(その江北の地たる)河南の洛陽のくだもの店には、橘があるというようなものである。また、鸚鵡おうむ壟西りょうさいより(東へは)渡らないが、ちょうの国の鳥かごのとまり木には鸚鵡おうむがいるという。この二つのもの(みかん鸚鵡おうむ)は、ただそのたねがむこうに渡らないというのである。声聞しょうもんが存在するというのも、このようなものである。
 このように理解すれば、経と論とは一致するのである。


『解読浄土論註』109頁

 問い。名は事物をよぶものである。事物があれば、すなわち名がある。安楽国にはもはや二乗・女人・根欠こんけつなどのものが存在しないのに、またどうしてことさらこの三つの名がないというのか。

 答え。意志の弱い菩薩は、少しも勇猛でないから、これをそしって声聞しょうもんとよぶようなものである。たとえば、こびへつらったり弱々しい男をそしってよぶ名。また耳は聴えるが、わけを聴いても理解しない者をそしってよぶ名。また舌はものをいえるが、どもったりまだるこかったりする者をそしってよぶ名である。このように器官がそろって満足していても、そしきらう名がある。
 だから「譏嫌きげんの名なし」という必要があることは明らかである。浄土にはこのように与奪ちぐはぐの名はないのである。

 問い。法蔵菩薩の本願(第十四願、声聞無数の願)、及び龍樹菩薩の(『十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん』の阿弥陀の本願を)讃えられたところをたずねると、皆かの安楽国に声聞しょうもんの人々が多いことをもって奇特きどくなこととしているようであるが、これはどのようなわけがあるのか。

 答え。声聞しょうもんは実際に身を滅して涅槃に入ることをさとりとしている。このことを考えると、声聞しょうもんはそれ以上、仏道の根本たる求道の芽を生ずることはできないはずである。にもかかわらず仏は本願の不可思議な神力をもって声聞しょうもんをつつみいれ、かの安楽国に生ぜしめ、そのうえにまた神力によってかならず無上の求道心を生ぜしめるのである。
 たとえば鴆鳥ちんちょうが水の中に入ると、魚や、はまぐりなどがみんな死んでしまうが、さいのつのが、これに触れると死んだものがみなきかえる、というようなものである。

聖全Ⅰp298 往生論註

このように生ずるはずがないのに生ずるから奇特きどくなのである。
 だから五つの不思議の中で、仏法は最も不可思議である。仏は声聞しょうもんにふたたび無上の求道心を生ぜしめる。まことに不可思議のきわみである。〔真p.315〕


『解読浄土論註』112頁

17 願いを満たす(一切所求満足いっさいしょぐまんぞく功徳)
衆生しゅじょう願楽がんぎょうするところ、一切よく満足す。

 この二句は荘厳一切所求満足いっさいしょぐまんぞく功徳成就と名づける。
 仏はもと、どうしてこの願いをおこされたかというと、ある国土を見られるに、名が知れわたり、位が重いので、どこかにかくれようにも、かくれるところがない。或いは平凡で出身がいやしいので、出世をねがってもその路がない。或いは命の長短は業の束縛によって制せられて意のままにならない。たとえば阿私陀仙人あしだせんにんのようなたぐいである。このように業の風に吹かれてさまよい、ままにならないことがある。
 だから願って、我が国土では各々が求めるままに心の願いを満足せしめよう、と言われたのである。
 だから「衆生しゅじょう願楽がんぎょうするところ、一切よく満足す。」と言われるのである。


結び
かるがゆえに我、願わくは、かの阿弥陀仏国あみだぶっこくに生まれん。

 この二句は以上の十七種の国土を荘厳することの完成を観察するところを結び成立させるものである。「願わくは、かの阿弥陀仏国あみだぶっこくに生まれん。」と言われているからである。

 器世間きせけんの清浄なることを観察することは以上で終わった。


②仏の荘厳

『解読浄土論註』116頁

 つぎに衆生世間しゅじょうせけんの荘厳が清浄にまっとうしたさまを観察する。この門のなかを二つにわける。

 一には、阿弥陀如来の荘厳の功徳を観察する。
 二には、かの国の諸々の菩薩の荘厳の功徳を観察する。
 如来の荘厳の功徳を観察するところは八種をかぞえるが、その名は文に至って見ることにする。

 問い。ある論師たちは、一般に衆生という名の意味を解釈するに、三界をめぐりめぐって衆多あまた生死まよいをうけるから衆生と名づける、といっている。とすれば、いま仏と菩薩を衆生というのはどのようなわけであるか。

 答え。『経』(涅槃経)に言う。「一つの法には無数の名があり、一つの名には無数の意味がある」と。衆多あまた生死まよいをうけるから衆生と名づける、

聖全Ⅰp299 往生論註

というのは小乗の教えを伝える人たちが、三界の中の衆生という名の意味を解釈したもので、大乗の教えをうけ継いでいる人たちがいう衆生の意味ではない。大乗の人たちがいう衆生とは『不増不減経』に「衆生というのは、生ぜず滅せずという意味である」といわれているようなものである。
 どうしてそう言えるかといえば、もし生ずるということがあれば、生じおわってまた生ずることになって、いつまでも無限にくりかえすという矛盾がおこるからであり、そうすれば生ぜずして生ずるという矛盾があるからである。だから生ということはないのである。もし生があれば滅がある。すでに生がない以上、どうして滅がありえようか。だから生ずることなく滅することなし、ということが衆生の根本義である。
 たとえば『経』(維摩経ゆいまきょう)に、「五蘊ごうん(色・受・想・行・識)は空であって固定して存在するものはないと通達つうだつすれば、そのままが苦の衆生の根本義である」といわれているのはこのたぐいである。


『解読浄土論註』120頁

1 蓮華の王の座(座功徳)
無量大宝王むりょうだいほうおう微妙みみょう浄花台じょうけだいにいます。

 この二句は荘厳功徳成就と名づける。
 仏はもと、なぜこの座を荘厳されたかというと、ある菩薩を見られるのに、まよいの身を解脱する最後のとき、草を敷いて坐り、無上のさとりを成ぜられたが、人天はこれを見ることによって、仏をいよいよ尊くあおぐ信、いよいよ深くうやまう心、ますます法を愛楽する気持、さらに一そう修行にはげむ心を、かならずしもおこさなかった。
 だから私が仏となるときには、無量の大宝王たる微妙の浄花の台をもって仏座としようと、とくに願われたのである。
 「無量」という意義は、『観無量寿経』(第七華座観)に説かれている如くである。「七宝の地上に蓮花の大王ともいうべき大宝座がある。その蓮花の一一の花べんには百宝の色をあやなし、そのなかに八万四千のすじがあって、あたかも自然の(妙をきわめた)絵とかわらない。一一のすじには八万四千の光があり、小さな花べんでもさしわたし二百五十由旬ゆじゅんある。このような花べんが八万四千まい、かさなっており、その一一の花べんの間に百億のもっともすぐれたマニ珠がちりばめられて、たがいに、きらめき、よそおいあっている。一一のマニ珠は千の光明を放ち、その光はおのずから七宝をかたちづくる、きぬがさとなって地上をあまねくおおっている。またその台は釈迦ビリョウガ宝でかざられ、この蓮花の台は八万の金剛石・ケンシュクガ宝・浄マニ宝珠ほうしゅ・妙真珠のあみなどでかざられている。その台の上には、自然に四つの宝幢ほうどうが立ち、一一の法幢はあたかも八万四千億の須弥山のように威容をきわめている。

聖全Ⅰp300 往生論註

はたの上に、はりまわされた宝の幔幕まんまく夜摩天宮やまてんぐうのように、五百億の微妙なる宝珠がちりばめられて、きらめきあっている。その一一の宝珠には八万四千の光があり、一一の光は八万四千種のくさぐさの金色をなし、その一一の金色の光が安楽国の宝土をあまねくおおって、いたるところに変化していろいろふしぎなすがたをあらわしている。あるいは金剛石の台となり、あるいは真珠のあみとなり、いろとりどりの花の雲となり、十方にわたって意のままに変現し、仏の教化、衆生の利益をめぐらしているのである」と。
 このようなことがらは数量という考えを、こえたものである。
 だから「無量大宝王、微妙みみょう浄花台じょうけだいにいます。」とのたまわれたのである。


『解読浄土論註』127頁

2 身業しんごうの徳(身業功徳)
相好そうごう光一尋ひかりいちじんなり、色像しきぞう群生ぐんじょうえたまえり。

 この二句は荘厳身業しんごう功徳成就と名づける。
 仏はもと、なぜこのような身業を荘厳されたかというと、ある仏の身を見られるのに、一丈の光明をはなっているだけで、人身の光とあまりかけはなれていないのである。たとえば転輪王てんりんおう相好すがたのようなもので、かの提婆達多だいばだったはそれにくらべてわずかに劣るだけで、一見したところは大体かわりがない。ただ一つの相好すがたが少ないだけである。そのため阿闍世王あじゃせおうはあやまって争乱の心をいだいたのである。サンジャヤらの外道げどうが、かまきりのような小さなうでを釈尊にくわえたのもこのようなたぐいである。
 だからこのような身業を荘厳せられたのである。
 中国の古くからの教えによれば、六尺を一じんという。『観無量寿経p.105』(真身観)では「阿弥陀如来の身の高さは六十万億那由他恒河沙由旬なゆた ごうがしゃ ゆじゅんである。仏の円光は百億の三千大千世界のようである」といわれている。翻訳者が一尋ということで仏の相好すがたの光をあらわしているのはどうもしっくり合っているとはいえないようである。
 数もかぞえられぬ里人さとびとたちは、縦横・長短をはっきりさせえず、みな一様に横に両手のひじをのばした長さを一尋といっている。翻訳者はこの(素朴な人々をすくうたえなるみ教えの)意味をもって阿弥陀如来がせい一ぱいに、のばされた両ひじの大きさとして、あらわしたものとおもわれる。だから一尋といえば(如来の両手をのばされた長さであり、それは大体身の高さと同じであるから)円光もまた直径六十万億那由他恒河沙由旬であるはずである。
 だから「相好そうごう光一尋ひかりいちじんなり、色像しきぞう群生ぐんじょうえたまえり」とのたまわれたのである。

 問い。『観無量寿経p.130』にいわれている。「諸仏如来は法界身である。(だから)すべての衆生の心のおもいのなかに入る。だから汝らが心に仏を想うとき、この心がそのまま三十二相八十随形好である。

聖全Ⅰp301 往生論註

この心が仏となるのであり、この心がそのまま仏である。諸仏正遍知海は衆生の心想より生ずる」と。この意味はどのようなものであるか。
 答え。身は集めて成立する意味に名づける。界は事物の別々の相に名づける。たとえば、げん界が眼根・その対境・空間・明るさ・意志という五つの因縁より生ずるようなものである。この場合、眼はただ眼自身の因縁を行ずるだけであって、他の因縁にはかかわらない。それがつまり事物が別であるという意味である。・鼻などの界もまたこのようなものである。
 「諸仏如来は法界身である」(『観無量寿経』(第八像観))とは、法界は(さきにあげた眼界などのように)衆生の心の法そのものである。心は(因縁によって)世間・出世間のあらゆる法を生みだすから、心を法界と名づけるのである。(それゆえ)法界はまた諸々の如来の相好すがたの身を生ずる。それは色界などが眼識を生ずるようなものである。だから仏の身を法界身というのである。この仏の身は(正道大慈悲出世の善根という浄因縁によって生ずるゆえに)他の(衆生の)業因縁によらず、一切の衆生の心想の中に入るというのである。
 「心に仏を想うとき、この心がそのまま三十二相八十随形好である」とは、衆生が心に仏を想うとき、仏身の相好すがたが衆生の心の中にあらわれるということである。たとえば、水が澄んでいればものの像がうつされる。水と像とは一つではないが、さりとて異なるものでもない。だから仏のすがた、かたちがそのまま衆生の心の想いである、というのである。

 「この心が仏とる」とは、衆生の仏を想う心が仏を作るということである。
 「この心がそのまま仏である」とは、この衆生の作仏身のほかに仏はましまさないということである。
 たとえば、火は木(をすりあわせること)から生じるから、火は木を離れてはいない。木を離れないから木を焼くことができ、それで木が火となるのであり、さらに木を焼いて火は火となるのである。〔信p.242〕

 「諸仏正遍知海は心想より生ずる」。「正遍知」とは真であり正であって、(衆生の心想である)法界そのままに知るのである。法界は無相(と、さとるのが諸仏の智慧)であるから、「諸仏」はまた無知である。無知だから知らないことがない。無知であってしかも知であるのが正遍知である。だからこそ、その智慧が、深く、広く、はかりしることができないので「海」にたとえるのである。


『解読浄土論註』132頁

3 口業の徳(口業功徳)
如来にょらい微妙みみょうみこえぼんひびき十方じっぽうに聞こゆ。

 この二句は荘厳口業くごう功徳成就と名づける。
 仏はもと、なぜこの荘厳をおこされたかというと、ある如来の名はかならずしも尊いおもいをあたえるとはかぎらないからである。たとえば外道げどう瞿曇くどん(釈尊の生家の本姓)とその姓をよびすてにして仏を軽んじているようなものである。道を成じられてもその名はただ梵天ぼんてんにとどくばかりで(十方に聞こえないので)ある。
 だから私が仏となるからには、そのたえなる名声をはるか十方のはてまでおよばぬところのないようにゆきわたらせ、聞く者すべてをして無生法忍をさとらしめようと、とくに願っていわれたのである。

聖全Ⅰp302 往生論註


 だから「如来にょらい微妙みみょうみこえぼんひびき十方じっぽうに聞こゆ。」とのたまわれたのである。


『解読浄土論註』135頁

4 心業の徳(身業功徳)
地・水・火・風・虚空こくうに同じて、分別なからん。

 この二句は、荘厳心業しんごう功徳成就と名づける。
 仏はもと、なぜこの荘厳をおこされたかというと、ある如来を見られるのに、法を説く場合、これは黒(悪)これは白(善)これは黒でもなく白でもなく(無漏むろ)、これは下法・中法・上法・上上法と説く。このような無量の差別の品類ひんるいがあって、法それ自体に分別があるかのようにうけとられる。
 だから、私が仏となるからには、大地がものを荷負かふするのに、軽・重をわけることがないように。水がものをうるおし成長させるのに、悪草・薬草を区別することがないように。火がものをたきするのに、こうばしい・くさいの別がないように。風がふきおこるのに、眠りをさまさせてやろうというような、はからいがないように。空間がものをうけいれるのに、まだあている・もう一ぱいだという念のないように。このような無分別の心を内に得しめて、衆生を外なる万差のすがたに安んぜしめ、虚心きょしんって真実に満たされて帰ることここにきわまるように。と願っていわれたのである。
 だから「地・水・火・風・虚空に同じて、分別なからん」とのたもうたのである。


『解読浄土論註』137頁

5 仲間たち(衆功徳) 
天人不動てんにんふどうしゅう清浄しょうじょう智海ちかいより生ず。

 この二句は荘厳しゅう功徳成就と名づける。
 仏はもと、なぜこの荘厳をおこされたかというと、ある如来を見られるに、説法をされるところに、あつまったすべての大衆の根機こんき、生まれつき習性しゅうせい、望みなどは種々不動であるため、(一味平等の)仏の智慧についてゆけず、(二乗に)退却したり(生死まよいに)沈没したりするものがあるので、大乗が等しく清浄ではない。
 だから、願わくは私が仏となるからには、あらゆる天人はみな如来の智慧清浄海より生まれるように、との願いをおこされたのである。

 「海」とは、一切きわめつくされた仏の智慧が深広じんこうはてがなく、二乗のあさい、よせあつめの善にもとづく縁覚えんがく声聞しょうもんなどの残がいは全くとどめないということで、これを海にたとえたのである。
 だから「天人不動てんにんふどうしゅう清浄しょうじょう智海ちかいより生ず」とのたもうたのである。
 「不動」とは、彼の国の天人は大乗の根性を全うしていて、けっして動じないということである。〔行p.199〕


『解読浄土論註』139頁

6 須弥山王しゅみせんのうのごとし(上首じょうしゅ功徳)
須弥山王しゅみせんのうのごとく、勝妙しょうみょうにして過ぎたる者なし。

聖全Ⅰp303 往生論註

 この二句は荘厳上首じょうしゅ功徳成就と名づける。
 仏はもと、なぜこの願いをおこされたかというと、ある如来をみられるのに、教化せられる大衆のなかにことさらに強がる者がおる。たとえば提婆達多だいばだったのたぐいなどである。あるいは国土と仏とが並んで国を統治していて、仏にゆずることをまったく知らないものがある。あるいは仏を請待しょうたいしておきながら、ほかの用事にとりまぎれてすっかり忘れてしまったことなどがある。このように大衆の上首じょうしゅたる力が徹底していないようにみえることがある。
 だから、願わくは「私が仏となるときは、すべての大衆は生まれたという自意識なく、したがってすべて私と等しからしめ、しかもただひとり法王として、さらにくらぶべき俗王のないようにしたい」と願っていわれたのである。
 だから「須弥山王しゅみせんのうのごとく、勝妙しょうみょうにして過ぎたる者なし」とのたもうたのである。


『解読浄土論註』142頁

7 恭敬くぎょうの道(しゅ功徳)
天人丈夫てんにんじょうぶしゅう恭敬くぎょうしてめぐりて瞻仰せんごうしたてまつる。

 この二句は荘厳しゅ功徳成就と名づける。
 仏はもとなぜこの荘厳をおこされたかというと、ある仏如来を見られるに、所化の大衆があっても、そのひとびとのなかに仏を仏としてうやまわないものがいる。たとえばある比丘が釈迦牟尼仏に告げて、もし私のために十四の難問を解いてくれなければ、私はほかの道を学ぼうとおもう、といったようなものである。また居迦離くかり舎利弗しゃりほつをそしったのに対して、仏は三たびいさめられたが三度とも拒否した、というようなものである。また外道げどうの輩たちが、かりそめに仏の聴衆にまじって、つねに仏の短所がないかと、うかがっていたようなものである。また第六天の魔王がつねに仏のもとへやってきて、いろいろの妨害をくわだてたというようなことで、このような仏をうやまわないいろいろのすがたがある。
 だから、私が仏となるからには、天人大衆は恭敬くぎょうしてものうきことのないように、と願っていわれたのである。
 だから、ただ天人といっているのは浄土には女人や八部鬼神はちぶきじん(というような人のそしりをうけるもの)がいないからである。
 それで「天人丈夫てんにんじょうぶしゅう恭敬くぎょうしてめぐりて瞻仰せんごうしたてまつる」とのたもうたのである。


『解読浄土論註』146頁

8 仏の住持じゅうじの力(不虚作住持ふこさじゅうじ功徳)
ぶつ本願力ほんがんりきを観ずるに、もうおうてむなしくぐる者なし、
すみやかに功徳くどく大法界だいほうかいを満足せしむ。〔行p.167〕

 この四句は荘厳不虚作住持ふこさじゅうじ功徳成就と名づける。
 仏はもと、なぜこの荘厳をおこされたかというと、ある如来をみられるのに、ただ声聞しょうもんばかりをもって僧伽そうぎゃとなして、真の仏道を求めるものがない。あるいは仏に値遇しながら、三悪道をまぬがれないものがある。善星ぜんしょう提婆達多だいばだった居迦離くかりなどがこれである。

聖全Ⅰp304 往生論註

また仏の名号を聞いてこの上ない求道心をおこしながら、悪い因縁にあって声聞しょうもん独覚どっかくの二乗地にしりぞくものがある。このように空しく過ぎる者や退没たいもつする者などがある。
 だから、私が仏となるときには、私に値遇ちぐうするものはみな、無上の大宝だいほうをすみやかにとく満足するようにと願っていわれたのである。
 だから「ぶつ本願力ほんがんりきを観ずるに、もうおうてむなしくぐる者なし、すみやかに功徳くどく大法界だいほうかいを満足せしむ」とのたもうたのである。
 住持じゅうじという意味はさきに(国土荘厳の主功徳成就の段で)のべたとおりである。

 仏の荘厳たる八種の功徳を観察することは以上でおわった。

 「観仏本願力 遇無空過者」というは、如来の本願力をみそなわすに、願力を信ずるひとはむなしく、ここにとどまらずとなり。
 「能令速満足 功徳大宝海」というは、のうはよしという、りょうはせしむという、そくはすみやかにとしという、よく本願力を信楽しんぎょうする人は、すみやかにとく功徳の大宝海を信ずる人の、そのみに満足せしむるなり。如来の功徳のきわなくひろくおおきに、へだてなきことを大海のみずのへだてなくみちみてるがごとしと、たとえたてまつるなり。p.519 尊号真像銘文


③菩薩の荘厳

『解読浄土論註』151頁

 つぎに、安楽国の諸々もろもろの大菩薩に四種の荘厳の功徳がまっとうしているさまを観察かんざつする。

 問。如来の荘厳の功徳を観察したのに、このうえ何の不足があって、さらに菩薩の功徳を観ずる必要があるのか。

 答。明君めいくんがましますときには必ず賢臣けんしんがある、というようなものである。ぎょうしゅん(という明君の政治)を無為と称するのも、このようなたぐいで(ことさら王が天下をおさめようとしないでも、民が安らかであったのは、賢臣あったからこそで)ある。もし、法王たる如来のみがましましても、法臣たる大菩薩がいなかったなら、仏道をたすけ、すすめてゆくのに十分ということが、どうしてできようか。また、たきぎを積みあげることが少ないときは、火もまた大きくならない、というようなものでもある。

 『経』(浄土の三部経)に、阿弥陀仏の国には、数しれぬ大菩薩がたがおられ、観世音・大勢至といったようなかたは、みな一生他方世界にあり、次生には必ず仏の住処をおぎなうであろう、といわれているようなものである。
 もし人が(それらの菩薩がたの)名を称え、憶念し、帰依し、観察すれば、『法華経普門品ほけきょうふもんぼん』に(観世音菩薩の徳について)説かれているように、いかなる願いであれ満たされないということはないのである。

 ところで、菩薩が功徳を愛しもとめることは、あたかも海が川の流れをのんで、少しもあきるおもいのないようなものである。

 たとえばこういうこともある。釈迦牟尼如来が、一人の失明の比丘の「誰か功徳を愛するものあらば、私のため針に糸をとおしてほしい」と、なげきうったえる声を聞かれて、ただちに如来は禅定ぜんじょうより立ちあがられ、その比丘のみもとに至り、つぎのようにいわれた。「私は、さいわいなる功徳を愛するものである。あなたのため針に糸をとおしてやろう」と。
 そのとき、失明の比丘は、そらに仏の語られる声を聞きわけ、驚きかつ喜んで、仏に申しあげた。「世尊よ、世尊にあってもその積まれた功徳は、まだ十分ではないのですか」と。仏はこたえられた。「私の功徳は円満していて、さらにもとめるべきものとてないが、ただ私のこの身は功徳によって生じたものであり、その功徳の恩をわきまえているが故に、いよいよ愛するというのである」と。

 (以上であきらかなように)問いのとおり、仏の功徳を観察することで、十分願いは満たされているのであるが、さらに菩薩がたの功徳を観察するわけも、

聖全Ⅰp305 往生論註

ただただ上述のとおり、いろいろ意義があるからなのである。


『解読浄土論註』156頁

1 不動にして応化する徳(不動応化功徳)
安楽国は清浄しょうじょうにして、つね無垢むくりんを転ず、化仏けぶつ菩薩ぼさつの日、須弥しゅみ住持じゅうじするがごとし。

 仏はもと、どうしてこの荘厳をおこされたかというと、ある仏土を見られるに、小菩薩がましますばかりで、十方世界にわたって、ひろく仏の(衆生教化の)事業をなすことができない。あるいはまた、声聞しょうもんや人天がいるばかりで、その利益するところはきわめて狭い。
 だから、この願いをおこされたのである。願わくは、わが国土のなかには、はかりしれない数の大菩薩がいて、その場処を動かずに、あまねく十方世界に至って、いろいろその国土に応じてすがたをかえてあらわれ、真実おしえ(の力)のままに行じて、つねに仏の事業をなすように、と。
 たとえば、日は天上にあって、しかもそのすがたはあらゆる水面みずもにあらわれる、というようなものであって、それは日そのものが水面に来ったのではないが、さりとて来ていないのでもない。
 『大集経だいじつきょう』いわれている。「たとえば、人あって、池のつつみをたくみにととのえ(水をため)、よいころをみはからって放水するときには、あれこれと思いをくわえなくても(自然と田地が)うるおされる、というようなもので、菩薩もまたこのように、まず一切の諸仏を供養し、一切の衆生を教化するためのもろもろの堤防をととのえれば、三昧に入るときいたって、身も心も動かさず、真実おしえ(の力)のままに行じ、つねに仏の事業をなすのである」と。
 如実修行とは(真実の法の力のままに行ずることであるから)つねに修行しているけれども、しかも実際(作意さい的)に修行するところがない、ということである。
 だから、「安楽国は清浄しょうじょうにして、つね無垢むくりんを転ず、化仏けぶつ菩薩ぼさつの日、須弥しゅみ住持じゅうじするがごとし」とのたもうたのである。

小菩薩
 三つの説がある。①下位(七地已下)の菩薩。②界内(三界内)の小行の菩薩。③小乗の菩薩。いまは②が適当かと思われる。


『解読浄土論註』160頁

2 同時に十方に至る徳(一念遍至功徳)
無垢荘厳むくしょうごんの光、一念および一時に、あまねく諸仏のを照らし、もろもろの群生ぐんじょう利益りやくす。

 仏はもと、どうしてこの荘厳をおこされたかというと、ある如来を見られるに、その眷属はらからが、他方国土の数しれぬ仏たちを供養しようとおもい、数しれぬ衆生を教化しようとおもうときは、こちらを没してあちらにあらわれ、南を先にすれば北をあとにする、といったぐあいで、一念一時ひとおもいひとときに光を放って、すべてを照らすことができない。これは、あまねく十方世界にゆきわたって、衆生を教化するのに、出と没、前と後といったすがたをとるからである。
 だから願いをおこされたのである。願わくは、わが仏土の諸々の大菩薩は、一念ひとおもいのあいだに、あまねく十方世界に至って、いろいろの仏の事業をなすように、と。
だから「無垢荘厳むくしょうごんの光、一念および一時に、あまねく諸仏のを照らし、もろもろの群生ぐんじょう利益りやくす」とのたもうたのである。
 問。

聖全Ⅰp306 往生論註

   さきの意に、身を動かすことなく、しかもあまねく十方世界に至る、といっている。「動かずして至る」とは、とりもなおさず「一時に」という意味ではないか。(とすれば)この章とどのような差別ちがいがあるのか。
 答。さきには、ただ「動かずして至る」といってあるだけだから、あるいは(その至り方に)前後があるかもしれない。ここには、前もなく後もないといっている。これが差別ちがいである。
 また、この意は、さきの「動かず」という意味をまっとうするのである。もし一時どうじでなかったなら、ったり来たりすることになる。往ったり来たりするのなら、不動というわけにはいかない。だから、上の章の「動かず」という意味をまっとうするために、「一時に」ということを、是非ともあきらかにる必要があるのである。


『解読浄土論註』163頁

3 諸仏を供養する徳(無余供養功徳)
てんがくと、妙香みょうこう等をりて供養くようし、諸仏の功徳くどくを讃ずるに、分別ふんべつの心あることなし。

 仏はもと、どうしてこの荘厳をおこされたかというと、ある仏土を見られるに、菩薩や人天の志ざすところが広くなく、あまねく十方のはてしない世界に至って、諸仏如来と大衆を供養することができない。また、自分の国土が穢れ濁っているので、(それを恥じて)あえて浄らかなくににおもむこうとしなかったり、住んでいるところが清浄なので、(それを誇って)穢れた国を軽蔑したりする。このようないろいろの局分せまさがあるので、諸仏如来のみもとをめぐりめぐって供養し、広大なる善根をおこすことができないのである。
 だから願って、私が仏となるからには、わが国土のすべての菩薩・声聞しょうもん・天人大衆は、あまねく十方の一切の諸仏の大会の処に至って、すぐれた音楽、妙なる花、みごとな衣、すばらしいかおりをあめふらし、巧妙たくみ弁辞ことばで諸仏の功徳を供養し、讃嘆しよう、といわれたのである。
 穢土にまします如来の大慈悲の、つつしみぶかく忍耐づよいことを讃えこそすれ、その仏土のさまざまに穢れたすがたを見ることなく、浄土にまします如来の、はかりなき荘厳を讃えこそすれ、その仏土の清らかなすがたを見ることはないのである。
 なぜかといえば、諸法は平等であるから、諸々の如来は平等である。だから、諸仏如来を等覚というのである。もし仏土について、優劣を差別するこころをおこせば、たとえ如来を供養したとしても、法にかなった供養ではない。
 だから「てんがくと、妙香みょうこう等をりて供養くようし、諸仏の功徳くどくを讃ずるに、分別ふんべつの心あることなし」とのたもうたのである。


『解読浄土論註』166頁

4 「三宝さんぼうなき世界」へはたらく徳(遍至へんし三宝功徳)
何等なんらの世界にか、仏法功徳ぶっぽうくどくほうましまさぬ。われ願わくはみな往生おうじょうして、仏法を示すこと仏のごとくせんと。

聖全Ⅰp307 往生論註

 仏はもと、どうしてこの願いをおこされたかというと、ある意志の弱い菩薩を見られるのに、ただ仏がまします国土で修行することばかりをねがって、(無仏の国に仏道をおこそうとするような)堅い慈悲の心がない。
 だから願いをおこされ、私が仏となるときは、わが国土の菩薩は皆、慈悲の心が勇猛でしっかりしており、自ら願って清浄の国土をすて、他方国土の仏法僧ましまさぬ処に至って、仏法僧の三宝をとわにたもって失わしめずに荘厳し、それを人々に示すこと、あたかも仏がましますごとくにして、仏法のたねをいたるところに(まいて)絶やさないようにしよう、と願われたのである。
 だから「何等なんらの世界にか、仏法功徳ぶっぽうくどくほうましまさぬ。われ願わくはみな往生おうじょうして、仏法を示すこと仏のごとくせんと」とのたもうたのである。

 菩薩の四種の荘厳の功徳のまっとうしたことを観ずることは、以上でおわった。


十 回向

『解読浄土論註』170頁

  つぎに、あとの四句は回向門えこうもんである。

  われれ論を作り、偈を説きて、願わくは弥陀仏を見たてまつり、
 あまねくもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん。

 この四句は、論主自らの回向門である。
 回向とは、自らがつんだ功徳をめぐらして、ひろく生きとし生けるものにめぐみ、ともに阿弥陀如来を見たてまつり、安楽国に生れよう、ということである。

 無量寿修多羅むりょうじゅしゅたらの章句 われ偈誦げじゅをもって総じて説きおわんぬ。

回向 『真宗新辞典』
 めぐらしさしむけること。如来がその徳を衆生にめぐらし施して救いのはたらきをさしむけること。自力の心をひるがえして願力にむかわせること。
 聖道門では、自分の修した善因を仏果菩提を得ることにさしむけ(菩提回向)、自己の善根功徳を他の衆生を利益するためにさしむけ(衆生回向)、善根の事を平等の理にさしむけて一一の善が真如法性の顕現であると観じて平等法身の理をさとること(実際回向)を意味し、これを三種回向という〔大乗義章〕。
 親鸞はこれらの挟善趣求きょうぜんしゅぐの自力回向に対して他力回向の説をたて、大経の本願成就文を「至心に回向したまへり」と訓読して如来の救済のはたらきの絶対性を強調し、曇鸞の浄土論註の説にもとづいて、衆生が浄土に往生してさとりをひらく往相も、滅度を証してから穢土に還って利他教化のはたらきをあらわす還相も、すべては弥陀の本願力のしからしむる所であり、仏から衆生にさしむけられたものであるとする。
 浄土真宗に、往相回向と還相回向との二種回向があり、往相回向について真実の教行信証があるとし〔教〕、本願力の回向に二種の相があると説く〔聚鈔〕、他力念仏の行は自力回向の行ではないから行者にとっては「不回向の行」〔行〕であり、浄土に生れたいとおもう欲生心も自力の回向心でないから「不回向」〔信〕であるとする。
 念仏と諸善、本願と要門を対比して、回不回向えふえこう対〔行〕、不回回向ふええこう対〔愚鈔〕を立てる。「一念のほかにあまるところの念仏は十方の衆生に回向すべし」〔消息〕という回向は常行大悲の報恩行であり自力の回向ではない。
 道綽は六種回向の説をたて①諸善を回向して往生し、自在に衆生を教化する、②因から果へ、③下から上へ、④遅から速へと、「世間に住せざる」現状から目標への志向、⑤衆生に廻施して善に向かわせる、⑥廻入して分別の心を去ること〔安楽〕、
 源信は五種回向をあげる。また、回向の意味に、回因向果、回思向道、廻入向他の三義があるという〔選択註解鈔〕。
 なお、亡くなった人に対する追善(追薦)を回向ということがあるが、真宗の仏事は仏恩報謝のいとなみであり、追善回向ではない。勤式の終に唱える偈文を仏教一般にならって回向文といい、「願似此功徳…往生安楽国」〔玄義〕、「世尊我一心…願生安楽国」〔論〕、「我説彼尊功徳事…廻施衆生生彼国」〔十二礼〕を用いる。

十一 八番問答

1  普く諸の衆生と共に

 問(一)。天親菩薩は回向門の章のなかで、「あまねもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん」といわれているが、これはどのような衆生を「共に」としておられるのか。

 答。王舎城で説かれた『無量寿経』(大経)をひもとくに、つぎのようにいわれている。「仏は阿難に告げたもうた。十方の恒河の砂の数ほどもある無数の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の大いなる功徳の不可思議なることを称嘆しょうたんされている。あらゆる衆生は、諸仏が称嘆したもう無量寿仏の名号を聞いて、信じよろこぶ心を、せめて一念ひとおもいでもおこすであろう。(無量寿仏は)まことの心をもって、(そのような信心をわれらに)めぐらしてくださっている。だから(そのような信心をおこし)彼の安楽国に生れたいと願いさえすれば、そのときそのまま往生することができ、ふたたび退転しない世界に住することができるのである。ただ五逆の罪をおかすものと、正しいみのりをそしる者は、このかぎりではない」と。
 この文のこころを思いめぐらせば、すべての外凡夫の人が、みな往生できるのである。
 また、『観無量寿経』に説かれているように、九種類の往生がある。「下の下の部類の衆生の往生とは、ある衆生は、不善の業たる五逆(①母を殺し②父を殺し③聖者を殺し④仏の身体を傷つけ血をいだし⑤教団を破り、分裂させること)・十悪(①生命をそこなう②盗む③よこしまな男女関係④うそをつく⑤二枚舌をつかう⑥悪いことば⑦かざりことば⑧むさぼり⑨いかり⑩おろかさ)の罪をつくり、

聖全Ⅰp308 往生論註

その他いろいろのからぬことをなしている。このような愚かものは、まさにその悪業のために、悪道にち、長いあいだくりかえしくりかえし苦しみを受けて止むことがないであろう。このような愚かものが、いまわのときに、このものをいろいろなぐさめ、このもののためにすぐれた法を説き、教えて仏を念じせしめるき人に遇う。しかし、彼は苦しみにさいなまれていて、(心をしずめて)仏を念ずるいとまもない。そこでき人はつげて「あなたは、もし心に仏を念ずることができないのならば、無量寿仏と口に称えよ」という。このように心をつくし、声を絶やすことなく、十念をそなえて南無阿弥陀仏と称えれば、仏の名を称えるが故に、その一念一念の中に、八十億劫ものあいだ彼を生死まよいにつないでいた罪がのぞかれ、いのちおわるや、金の蓮華れんげが、あたかも日輪のようにかがやいて、その人のまえにあらわれ、またたく間に(この蓮華につつまれて)極楽世界に生れることができるであろう。蓮華の中で、十二大劫のときが満ちると、蓮華はまさしく開け(まさにこのとき、五逆の罪はつぐなわれる)、観世音菩薩と大勢至菩薩とが、大悲の音声をもって、そのもののために、広く諸法実相しょほうじっそうが罪をのぞき滅する法(即ち名号)を説くであろう。その人はこれを聞きおわって、歓喜し、即座に大菩提ぼだいの心をおこすであろう。これを下の部類のなお下のものの往生というのである」と。
 この経をもって証とすれば、下の部類の凡夫が、正しい法をそしることがなければ、ただ仏を信ずることのみをよすがとして、みな往生することができる、ということはまことに明らかである。

諸法実相しょほうじっそう
 諸法は、ありとあらゆる存在現象の差別の相。実相は、正覚よりみた諸法の体の平等の相。すなわち、存在の不変・常住の理、いわゆる真如の理。いまは、あらゆる功徳(法)をおさめた名号のことをいう。


2 往生

『解読浄土論註』176頁

 問(二)。『無量寿経p.044』では、往生を願うものはみな往生できるが、ただ五逆のものと、正法しょうぼうをそしるものは、そのかぎりではない、といわれている。『観無量寿経p.120』では、五逆・十悪をおかし、いろいろのからぬことをなしているものもまた往生することができるといっている。この二経(の差異)は、どのように理解すべきなのか。

 答。一経に説かれてあるのは、二種の重罪をともにおかしているからである。つまり、一には五逆、二には正法しょうぼうをそしることである。この二種の罪のために往生できないのである。
 一経には、ただ十悪や五逆などの罪をつくるとのみいって、正法しょうぼうをそしるとはいっていない。正法しょうぼうをそしることがないから、往生できるのである。

3 謗法の罪人は救われるのか

 問(三)。たとい、ある人が五逆の罪をもっていても、正法しょうぼうをそしらなければ往生できる、と『経』に認めているのならば、ひるがえって、ある人が正法をそしるだけで、五逆などのいろいろな罪がなくて往生を願えば、往生できるというのだろうか。

 答。ただ正法しょうぼうをそしるだけで、まったくほかの罪がないとしても、決して往生することはできないのである。
 なぜかといえば、『経』(般若経)にいわれている。「五逆の罪人は、阿鼻大地獄あびだいじごくちて、つぶさに一劫いっこうの重罪をうける。

聖全Ⅰp309 往生論註

正法しょうぼうをそしる人は、阿鼻大地獄あびだいじごくちて、この(地獄での苦をうける)時劫じこうがつきると、また転じて他方の阿鼻大地獄に至る。このように、つぎつぎと転じて、百千の阿鼻大地獄の中をへめぐるのである」と。
 仏は、この地獄を出ることのできる時節をしるされていない。正法しょうぼうをそしる罪が極めて重いからである。
 また、正法しょうぼうとは即ち仏法のことである。この愚痴おろかなるものは、すでに(その仏法を)そしっているのである。どうして仏の国土に生れたいと願う道理があろうか。たとえ、ただ彼の国土が、安楽なところだから生れたいとむさぼって、往生を願っても、それはあたかも、水によらない氷、けむりのない火を求めるようなものである。どうして往生できる道理があろうか。


4 謗法の罪とは何か

『解読浄土論註』179頁

 問(四)。どのようなすがたが、正法をそしることであるのか。

 答。たとえば、仏もなく仏の法もなく、菩薩もなく菩薩の法もない、という。このような見解で、みずから解釈したり、他の考えにしたがって、その心をうけて断定したりするのをすべて、正法しょうぼうをそしるというのである。

5 謗法の罪はなぜ重いか

 問(五)。このような(正法をそしるところの)はからいというものは、ただ自己一人にかかわることであって、他の衆生に何の苦しみをあたえるものでもないのに、どうして(他の衆生に苦しみをもたらすところの)五逆の重罪よりもなお重いのか。

 答。もし、諸仏や菩薩が、世間のき道、出世間のき道を説いて、衆生を教化することがなかったなら、どうして(人々が)仁義礼智信じんぎれいちしん(の道)のあることをわきまえることができようか。このような世間すべてのき法は、みななくなり、出世間のすべての賢者・聖者しょうじゃもみな、ほろびてしまうであろう。あなたは、ただ五逆の罪の重いことだけを知っていて、五逆の罪が、正法のないことから生ずることを知らないのである。だから、正法をそしる人は、その罪が最も重いのである。


6 業道の超越

『解読浄土論註』184頁

 問(六)。業道について説かれた『経』には、「業道は、はかりのように、重いほうへひきつけられる」といってある。『観無量寿経』では「五逆・十悪をおかし、いろいろのからぬことをなすものは、まさに悪道にち、長いあいだをへめぐって、はかりしれぬ苦をうけるであろう。(しかし)いまわのときに、き人の教えに遇い、南無阿弥陀仏ととなえる。このように心をつくし、声を絶やすことなく、十念を具足ぐそくするならば、そのときそのまま安楽浄土に往生して、大乗の正定をえたともがらに入ることができ、もう二度と退くことなく、三塗さんずのもろもろの苦しみを、とわにはなれるのである」といってある。(とすれば)業が重いほうへひきつけられるという意義は、道理としてどうなのか。
 また、永遠のむかしより、人はすべていろいろな行為をしてきて、その煩悩にけがれた法は、三界につなぎとめられるものとなっている。(にもかかわらず)ただ十念、阿弥陀仏を念ずるだけで、たちまち三界を、でることができるというのなら、業によってつながれるという意義は、またどのように考えればよいのか。

聖全Ⅰp310 往生論註

 答。あなたは、五逆・十悪といった(三界に)つなぎとめられる業などのほうを重とし、下の下の部類の人の十念のほうを軽として、だから罪のためにひかれてまず地獄にち、三界につなぎとめられるはずだという。それではいま、道理をもって、(どちらの業が)軽いか重いかを比較することにしよう。
 (業の軽重は)「心にり」、「縁に在り」、「決定に在る」のであって、時節の長い短かい、多い少ないにあるのではない。

 どのように「心に在る」のか。かの五逆・十悪などの罪をつくる人は、自ら虚妄いつわり顛倒さかさまのおもいにとらわれて罪をつくる。この十念は、き人がいろいろ手だてをつくしてなぐさめ、実相の法(即ち名号)を説かれるのを聞くことによって生じる。一方はまこと、一方はいつわりである。どうして比較できようか。たとえば、千年このかたの闇室に、もし光が少しでもさしこめば、そのときたちまち明るくなる、というようなものである。やみが室に千年あったからといって、どうして(その闇が)室をはなれないということができようか。これを「心に在る」というのである。

 どのように「縁に在る」のか。かの罪をつくる人は、みずから妄想の心にあり、煩悩虚妄のむくいをうけている衆生によって罪を生じるのである。この十念は、このうえなき信心をえ、阿弥陀如来のたくみな手だてである荘厳、真実の清浄さをそなえた、はかりしれぬ功徳の名号によって、(十念を)生じる。たとえば、ある人が毒矢をうけて、すじをきられ、骨を破られても、滅除(という名の)薬をぬったつづみの音を聞くと、たちまち矢がぬけ、毒ものぞかれる、といったようなものである。(『首楞厳経しゅりょうごんきょう』にいわれている。「たとえば、滅除という薬があって、もし、たたかいのとき、これを鼓にぬり、そのたたく音を聞けば、矢はぬけ、毒ものぞかれる。大菩薩もまたこのように、首楞厳しゅりょうごん三昧に住していて、その三昧の名を聞けば、三毒の矢は自然とぬける」と。)どうしてかの矢が深くささり、毒がはげしくて、つづみの音を聞いても矢がぬけず、毒もさらないということがあろうか。これを「縁に在る」というのである。

 どのように「決定に在る」のか。かの罪をつくる人は、あとがあると油断する心、雑念のまじわる心によって罪を生じる。この十念は、後をあてにしない(緊張した)心、雑念のまじわらない(ひたむきな)心によって生じるのである。これを「決定に在る」というのである。

 この三義において比較すれば、十念のほうが(業が)重い。(だから)重いほうへひきつけられて、三界をでることができるのである。両経(業道について説かれた経と観経)の義はまったく一つである。

『業道経』
 業道について説かれている経の意。業道という名の経があるのではない。それ故『安楽集』巻上では「大乗経に云く」として同じ文が引かれている。『惟日雑難経』に「秤の重き者に随うて、これを得るが如し」とあり、『道地経』に「譬えば、称の一上一下する如く、是の如く死を捨て生の種を受く」とある。称と秤は同じ意。


7 一念の自覚

『解読浄土論註』190頁

 問(七)。どれほどの時間を一念というのか。

 答。百一の生滅を一刹那いっせつなといい、六十刹那を一念という。しかし、この『観経』の中に「念」というのは、このような時間についていうのではない。
 ただ(ここに一念と)いわれているのは、阿弥陀仏の全体のすがたなり、一部のすがたなりを憶念して、そこに観じられてくるままにまかせて、心にほかのおもいをいれず、十念が相続するのを、名づけて十念とするのである。また、ただ口に仏の名号を称えるのだけでも、このようにいえるのである。

8 み名を称す

 問(八)。(十念する)心に、もし他のことを思いうかべれば、これをとりはらい、心をもとにかえして、仏を念ずる数の多い少ないを知るはずである。(しかし)ただ数の多い少ないを知るだけでも、雑念がまじわっていないとはいえない。

聖全Ⅰp311 往生論註

(かといって)もし心を集中させて、想いを仏にそそげば、こんどはどうやって念ずる数の多い少ないを心にきざむことができるのか。

 答。『観経』にいうのは、十念とは往生の業がまっとうしたことを明かすのみで、必ずしも念ずる数の多い少ないを知る必要はない、ということである。たとえば、夏ぜみは、春や秋を知らない。といってこの虫自体が、いまは夏の季節だということを知るはずもない、というようなものである。それを知る者が、夏の季節であるというだけである。十念の業がまっとうしたというのも、これと同じで、(人間の)はかりしれぬ境地に到達したもののみが、十念というのである。
 (われわれのほうは)ただひとえにおもいをつみつづけ、他のことをおもいうかべないなら、それで十分なのである。そのうえどうして、かりそめにも念ずる数を知る必要があろうか。もし、どうしても知る必要があるのならば、いろいろ手だてもあるが、それは必ず口授くじゅすべきものであって、筆でこれを書きしるすことはできないのである。

 無量寿経優婆提舎うばだいしゃ願生偈註 巻上(おわり)

百一生滅名一刹那
 一刹那は時間の最小単位。しかし、その中に百一の生滅があるとする説は、出拠不明。
 尚、『安楽集』巻上には「経に説きて云うが如し、百一の生滅を一刹那と成す」とあり、ここからおせば、そのような説をなす『経』があったとも考えられるが、一方、道綽はこの『論註』の文を見て、このようにのべたとも考えられる。