天親菩薩造論説 帰命無碍光如来 天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願 修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
広由本願力回向 為度群生彰一心 広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す。
謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。P152
然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。この劇悪極苦の中において身の営務を勤めて、もって自ら給済す。尊もなく卑もなし。貧もなく富もなし。少長男女共に銭財を憂う。有無同然なり。憂思適に等し。屏営愁苦して、念いを累ね慮りを積みて、心のために走せ使いて、安き時あることなし。田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。
p.058 仏説無量寿経巻下 正宗分 広顕衆生往生因果 顕通悲化(悲化段) 広示欣浄厭穢(善悪段) 挙苦令厭穢 挙三毒苦令厭(三毒段) 明三毒罪過 明貪欲過
少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず。P129
真宗は念仏を使ってたすかるということではないんだ。
科学や医学ではもう手に負えなくなった出来事について、もっと偉大な力を持っている神様や仏様をたてて、そしてその力を利用して、うまいこと自分たちの問題を解決しようとする。一般的な宗教です。世間的宗教。
「正」というは、傍に対し、邪に対し、雑に対することばなり。P747『正信偈大意』
出世間的宗教 人間の方に向かってはたらきかけてくるおはらたき。如来回向
広由本願力回向 為度群生彰一心 広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す。
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数 功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲。
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。
遊煩悩林現神通 入生死園示応化 煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す、といえり。
回向に二種の相あり、一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえるなり、と。
p.170 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 真実行 引文 釈文の一、中国の師釈 曇鸞『浄土論註』四文 (巻下)回向文釈の文(聖全316) … (34)
何等をか名づけて五念門とすると。礼と讃と作願と観察と回となり。
いかんが礼拝する、身業に礼したまいき。阿弥陀仏正遍知、p.462 入出二門偈頌文
菩薩は五種の門を入出して、自利利他の行、成就したまえり。p.461 入出二門偈頌文
如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚のくらいに住するがゆえに、他力ともうすなり。P471『三経往生文類』
往相還相の回向に もうあわぬ身となりにせば 流転輪回もきわもなし 苦海の沈淪いかがせん『正像末和讃』P504
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
説一切有部 有余涅槃 無余涅槃 個人
無住処涅槃
アレン・ネルソン1947-2009年
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 本師、曇鸞は、梁の天子常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦 三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 天親菩薩の『論』、註解して、報土の因果、誓願に顕す。
往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
必至無量光明土 諸有衆生皆普化 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。
曇鸞 476-542 15歳で出家 67歳示寂
中観派 唯識派
大信心はすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
p.211 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 真実信 大信釈 大信の相
フェアトレード(公平貿易)
マララ・ユスフザイ パキスタン ノーベル平和賞受賞
有情
定善
散善
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。
p.340 顕浄土方便化身土文類六 本(教行信証・化身土 本) 要門釈、第一九願開説、観経の意 三経通顕(真仮分判) 機相広述 随釈
大信心 真実にふれる
「仮」と言うは、すなわちこれ聖道の諸機、浄土定散の機なり。
p.250 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 信巻 重釈要義 正定聚機 真仏弟子 仮偽の仏弟子 仮釈
本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 本師、曇鸞は、梁の天子常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦 三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 天親菩薩の『論』、註解して、報土の因果、誓願に顕す。
往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
必至無量光明土 諸有衆生皆普化 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。
1945年1月27日、アウシュヴィッツ強制収容所は旧ソ連軍によって解放された。
第2次世界大戦中、ユダヤ人約600万人が殺害されたほか、多くのロマ人やソ連軍捕虜、同性愛者や障害者も犠牲になった。国連は2015年、ホロコースト犠牲者を追悼する国際デーをこの日に制定した。
アドルフ・ヒトラーを首相とするドイツの内閣。1933年1月30日に成立し、1945年4月30日のアドルフ・ヒトラーの死まで存続した。
天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまわずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし
p.492 高僧和讃
この『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。 p.168 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)
『論の註』に曰わく、謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに、云わく、菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。
p.167 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 行巻 真実行 引文 釈文の一、中国の師釈 曇鸞『浄土論註』四文 (巻上)発端の文(教判文)(聖全279)
人間のほうからつけていく道を「難」という 自力
如来のほうからとどいてくる道を「易」という 他力
讃阿弥陀仏偈和讃 愚禿親鸞作 南無阿弥陀仏
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり
p.479 浄土和讃
曇鸞大師がお書きになっている『讃阿弥陀仏偈』を48にまとめて御和讃にしているのが『讃阿弥陀仏偈和讃』
『浄土和讃』『高僧和讃』作 親鸞76歳 『正像末和讃』補訂 86歳
困ることと 悩むことは違う
総讃(讃阿弥陀仏偈和讃) 帰命無量寿如来 南無不可思議光
依経段(浄土和讃) 弥陀章 法蔵菩薩因位時~必至滅度願成就
釈迦章 如来所以興出世~是人名分陀利華
結誡 弥陀仏本願念仏~難中之難無過斯
依釈段(高僧和讃) 総讃 印度西天之論家~明如来本誓応機
龍樹章 釈迦如来楞伽山~応報大悲弘誓恩
天親章 天親菩薩造論説~入生死園示応化
曇鸞章 本師曇鸞梁天子~諸有衆生皆普化
道綽章 道綽決聖道難証~至安養界証妙果
善導章 善導独明仏正意~即証法性之常楽
源信章 源信広開一代教~大悲無倦常照我
源空章 本師源空明仏教~必以信心為能入
決勧 弘経大士宗師等~唯可信斯高僧説
『讃阿弥陀仏偈』曰 曇鸞御造 「南無阿弥陀仏 釈名無量寿傍経 奉讃亦曰安養
p.478 浄土和讃
『讃阿弥陀仏偈』に曰わく、曇鸞和尚造 南無阿弥陀仏、釈して『無量寿傍経』と名づく。賛め奉りてまた安養と曰う。
p.316 顕浄土真仏土文類五(教行信証・真仏土) 真仏土巻 真仏土釈 論釈文証 曇鸞大師の釈二文 『讃阿弥陀仏偈』の文 如来の威神光明を讃嘆(聖全350)
仏、阿難に告げたまわく、「無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明及ぶこと能わざるところなり。あるいは仏の光の百仏世界を照らすあり。あるいは千仏世界なり。要を取りてこれを言わば、すなわち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下も、またまたかくのごとし。あるいは仏の光の七尺を照らすあり。あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとく転た倍して、乃至、一仏刹土を照らす。このゆえに無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焰王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。・・・」
p.30 仏説無量寿経巻上 正宗分 広説如来浄土因果 明感勝報(勝報段) 広明 明仏報身体 光明無量 総嘆
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり
成仏より已来十劫を歴たまえり。寿命まさに量あることなけん。法身の光輪法界に遍じて、世の盲冥を照らす。かるがゆえに頂礼したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.316
1 無量光
智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ
智慧の光明量るべからず。かるがゆえに仏をまた無量光と号す。有量の諸相、光暁を蒙る。このゆえに真実明を稽首したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.316
2 無辺光
解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまう 平等覚に帰命せよ
解脱の光輪限斉なし。かるがゆえに仏をまた無辺光と号す。光触を蒙る者、有無を離る。このゆえに平等覚を稽首したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.316
3 無碍光
光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし 光沢かぶらぬものぞなき 難思議を帰命せよ
光雲のごとくにして、無碍なること虚空のごとし。かるがゆえに仏をまた無碍光と号す。一切の有碍、光沢を蒙る。このゆえに難思議を頂礼したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.317
4 無対光
清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば 一切の業繫ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ
清浄の光明、対あることなし。かるがゆえに仏をまた無対光と号す。この光に遇う者は業繫を除こる、このゆえに畢竟依を稽首したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.317
5 光炎王
仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり 三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ
仏光照耀して最第一なり。かるがゆえに仏をまた光炎王と号す。三塗の黒闇、光啓を蒙る。このゆえに大応供を頂礼したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.317
6 清浄光
道光明朗超絶せり 清浄光仏ともうすなり ひとたび光照かぶるもの 業垢をのぞき解脱をう
道光明朗にして、色超絶したまえり。かるがゆえに仏をまた清浄光と号す。一たび光照を蒙るに、罪垢除こる、みな解脱を得しむ。かるがゆえに頂礼したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.317
7 歓喜光
慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには 法喜をうとぞのべたまう 大安慰を帰命せよ
慈光遥かに被らしめ安楽を施す。かるがゆえに仏をまた歓喜光と号す。光の至るところの処に法喜を得しむ。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.317
8 智慧光
無明の闇を破するゆえ 智慧光仏となづけたり 一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまえり
仏光よく無明の闇を破す。かるがゆえに仏をまた智慧光と号す。一切諸仏三乗衆、ことごとく共に嘆誉す、かるがゆえに稽首したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.317
9 不断光
光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆえなれば 心不断にて往生す
光明一切の時、普く照らす。かるがゆえに仏をまた不断光と号す。聞光力のゆえに、心断えずしてみな往生を得しむ、かるがゆえに頂礼したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.317
10 難思光
仏光測量なきゆえに 難思光仏となづけたり 諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ
その光、仏を除きてはよく測ることなけん。かるがゆえに仏をまた難思光と号す。十方諸仏、往生を嘆じ、その功徳を称せしむ、かるがゆえに稽首したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.317
11 無称光
神光の離相をとかざれば 無称光仏となづけたり 因光成仏のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり
神光は相を離れたること、名づくべからず。かるがゆえに仏をまた無称光と号す。光に因りて成仏したまう。光赫然たり。諸仏の嘆じたまうところなり。かるがゆえに頂礼したてまつる。『讃阿弥陀仏偈』p.317
12 超日月光
光明月日に勝過して 超日月光となづけたり 釈迦嘆じてなおつきず 無等等を帰命せよ
光明照曜して日月に過ぎたり。かるがゆえに仏を超日月光と号す。釈迦仏嘆じたまうこと、なお尽きず。かるがゆえに我無等等を稽首したてまつる、と。
p.317 顕浄土真仏土文類五(教行信証・真仏土) 真仏土巻 真仏土釈 論釈文証 曇鸞大師の釈二文 『讃阿弥陀仏偈』の文 如来の威神光明を讃嘆(聖全350)
普放無量無辺光 無碍無対光炎王 あまねく、無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照 超日月光を放って、塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。
安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかえりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきわもなし
p.480 浄土和讃
阿弥陀仏の御名をきき 歓喜讃仰せしむれば 功徳の宝を具足して 一念大利無上なり
たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり
p.481 浄土和讃
一一のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし
一一のはなのなかよりは 三十六百千億の 仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり
相好ごとに百千の ひかりを十方にはなちてぞ つねに妙法ときひろめ 衆生を仏道にいらしむる
p.482 浄土和讃
また衆宝の蓮華、世界に周満せり。一一の宝華、百千億の葉あり。その華、光明、無量種の色なり。青き色には青き光、白き色には白き光あり。玄黄朱紫、光色もまた然なり。暐曄煥爛として、日月よりも明曜なり。一一の華の中より三十六百千億の光を出だす。一一の光の中より三十六百千億の仏を出だす。身色紫金にして、相好殊特なり。一一の諸仏また百千の光明を放ちて、普く十方のために微妙の法を説きたまう。かくのごときの諸仏、各各無量の衆生を、仏の正道に安立せしめたまう。
p.043 仏説無量寿経巻上 正宗分 広説如来浄土因果 明感極楽(極楽段) 明人荘厳 広明 明依報勝 明華光出仏
十方三世の無量慧 おなじく一如に乗じてぞ 二智円満道平等 摂化随縁不思議なり
弥陀の浄土に帰しぬれば すなわち諸仏に帰するなり 一心をもちて一仏を ほむるは無碍人をほむるなりp.482 浄土和讃
南無阿弥陀仏をとなうれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまうなり
已上現世利益 p.488 浄土和讃
曇鸞 476-543 五台山の近くの生まれ。
浄土の教え 今生において悟っていくということでなしに、浄土往生によって救われていく教え。
浄土の教えを聞くということは、今生においてはもう救われないということなんです。もともと今生においての悟りをひらくことができない。そういう時代でもあり、人間のありさまでもある。
龍安寺 吾唯知足(われただたるをしる)
貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚痴(無知)「三毒」
涅槃会(ねはんえ) 2月15日
花まつり(灌仏会) 4月8日
成道会(じょうどうえ) 12月8日
本当に自分というものに、それがなんであれ、自分を自分としてうなずいていく道です。
妄念妄想から解放されて自分自身にうなずきうる。そういうのが浄土の教えです。
罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき
p.509 正像末和讃
ものぐるい
身よりおこるやまい p.573 親鸞聖人御消息集(広本)
独立できるのは悟りを開いた人だけなんです。悟りが開けないと一人では生きていけないんです。
今生においての課題は成仏ではなしに往生である。
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 天親菩薩の『論』、註解して、報土の因果、誓願に顕す。
往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
必至無量光明土 諸有衆生皆普化 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。
「いかんが回向する。 一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」とのたまえり。回向に二種の相あり、一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえるなり、と。抄出
p.170 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 真実行 引文 釈文の一、中国の師釈 曇鸞『浄土論註』四文 (巻下)回向文釈の文(聖全316)
18願 至心 信楽 欲生
19願 至心 発願 欲生
20願 至心 回向 欲生
次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。
p.232 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 三心一心問答 第二の問答、三心別相釈(仏意釈) 欲生釈 欲生の体相
お念仏をするということには三つの意味が込められているんですよと説かれます。
一つは仏讃嘆、二番目は懺悔、三つ目は南無阿弥陀仏と申すは阿弥陀の浄土に生まれんと思うことだ。阿弥陀の浄土を願うことになるんだ。その心を南無阿弥陀仏として私たちに呼びかけてくる。回向が行ではなくて回向心。
「称仏六字」というは、南無阿弥陀仏の六字をとなうるとなり。「即嘆仏」というは、すなわち南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになるとともうすなり。「即発願回向」というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたうるになるとなり。p.520 尊号真像銘文
気づかされたり 目覚ましめられたり
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 天親菩薩の『論』、註解して、報土の因果、誓願に顕す。
往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
末法思想
浄土往生 阿弥陀の浄土 諸仏阿弥陀
11『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』に言わく、第四に願ずらく、「それがし作仏せしめん時、我が名字をもって、みな八方上下無央数の仏国に聞こえしめん。みな、諸仏おのおの比丘僧大衆の中にして、我が功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せん者、みな我が国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、終に作仏せじ」と。已上
p.158 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)真実行 引文 経文 『大阿弥陀経』(過度人道経)一文(聖全137)
『阿弥陀経』に、「一日、乃至七日、名号をとなうべし」と釈迦如来ときおきたまえる御のりなり。この経は「無問自説経」ともうす。この経をときたまいしに、如来にといたてまつる人もなし。これすなわち、釈尊出世の本懐をあらわさんとおぼしめすゆえに、無問自説ともうすなり。弥陀選択の本願、十方諸仏の証誠、諸仏出世の素懐、恒沙如来の護念は、諸仏咨嗟の御ちかいをあらわさんとなり。諸仏称名の誓願、『大経』にのたまわく、「設我得仏 十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚」と願じたまえり。この悲願のこころは、たといわれ仏をえたらんに、十方世界無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、仏にならじと、ちかいたまえるなり。「咨嗟」ともうすは、よろずの仏にほめられたてまつるともうす御ことなり。p.540 一念多念文意
往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
『出定後語(しゅつじょうごご)』富永仲基 大乗非仏説
如来の光瑞希有にして 阿難はなはだこころよく 如是之義ととえりしに 出世の本意あらわせり
p.483 浄土和讃
親鸞聖人は往生という言葉を一時点でとらえていない
一、四種往生の事。
四種の往生というは、一つには正念往生、『阿弥陀経』に「心不顛倒 即得往生」ととく、これなり。二つには狂乱往生、『観経』の下品にときていわく、「十悪・破戒・五逆、はじめは臨終狂乱して手に虚空をにぎり、身よりしろきあせをながし、地獄の猛火現ぜしかども、善知識におうて、もしは一声、もしは一念、もしは十声にて往生す。」三つには無記往生、これは『群疑論』にみえたり。このひと、いまだ無記ならざりしとき、摂取の光明にてらされ、帰命の信心おこりたりしかども、生死の身をうけしより、しかるべき業因にて、無記になりたれども、往生は他力の仏智にひかれて、うたがいなし。たとえば睡眠したれども、月のひかりはてらすがごとし。無記心のなかにも摂取のひかりたえざれば、ひかりのちからにて無記の心ながら往生するなり。因果の理をしらざるものは、なしに仏の御ちからにて、すこしきほどの無記にもなしたまうぞ、と難じ、また無記ならんほどにては、よも往生せじなんどおもうは、それは、くわしく聖教をしらず、因果の道理にまどい、仏智の不思議をうたがうゆえなり。四つには意念往生、これは『法鼓経』にみえたり。こえにいだしてとなえずとも、こころに念じて往生するなり。この四種の往生は、黒谷の聖人の御料簡なり。よのつねには、くわしくこのことをしらずして、臨終に念仏もうさず、また無記ならんは往生せず、といい、名号をとなえたらば往生とおもうは、さることもあらんずれども、それは、なお、おおようなり。p.958 安心決定鈔
そういう臨終の往生といわれるような往生と、親鸞聖人が本願によっていただかれた往生ということは、臨終だけをさす往生ではなくて、ひとつ幅のある往生なんです。
ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく
p.356 顕浄土方便化身土文類六 本(教行信証・化身土 本) 真門釈、第二〇願開説『小経』の意 三願転入 親鸞入信の述懐
(三)御文度々まいらせそうらいき。御覧ぜずやそうらいけん。なにごとよりも、明法の御坊の、往生の本意とげておわしましそうろうこそ、常陸の国中のこれにこころざしおわしますひとびとの御ために、めでたきことにてそうらえ。往生は、ともかくも凡夫のはからいにてすべきことにてもそうらわず。めでたき智者も、はからうべきことにもそうらわず。大小の聖人だにも、とかくはからわで、ただ願力にまかせてこそ、おわしますことにてはそうろうなれ。p.563 親鸞聖人御消息集(広本)
往生がとげられるということが臨終です。
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまう御のりなり。これを「即得往生」とはもうすなり。
p.549-550 唯信鈔文意
不退の位 退転 退屈
「必得往生」と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
p.178 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 真実行 引文 釈文の一、中国の師釈 自釈 必得往生の釈
正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。
必至滅度の願文、『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ、と。已上
『無量寿如来会』に言わく、もし我成仏せんに、国の中の有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ、と。已上
深信自身 わが身は迷いの衆生 どこまでも迷いの衆生
乗彼願力 かの願力に乗じて 定んで往生をうる
第一の深信は「決定して自身を深信する、」すなわちこれ自利の信心なり。
第二の深信は「決定してかの願力に乗じて深信する、」すなわちこれ利他の信海なり。
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 天親菩薩の『論』、註解して、報土の因果、誓願に顕す。
(二尊の大悲)それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。
(沈迷の二機)しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。(信順の己証と述作の意趣)ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明証を出だす。誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。(総結)浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と。
p.210 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 別序
天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまわずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし
論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたまう
p.492 高僧和讃
しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広慧の力に因るがゆえなり。
p.211 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 真実信 大信釈 正顕 信楽難獲
『浄土論』に曰わく、「何者か荘厳不虚作住持功徳成就、偈に、仏の本願力を観ずるに、遇うてむなしく過ぐる者なし、よく速やかに功徳の大宝海を満足せしむがゆえにと言えり。」不虚作住持功徳成就は、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。今まさに略して、虚作の相の住持にあたわざるを示して、もってかの不虚作住持の義を顕す。乃至 言うところの不虚作住持は、本法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とに依る。願もって力を成ず、力もって願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力・願相符うて畢竟じて差わず。かるがゆえに成就と曰う。p.198 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)
光明寺の和尚の『般舟讃』には、「信心の人はその心すでに浄土に居す」と釈し給えり。居すというは、浄土に、信心の人のこころ、つねにいたりというこころなり。これは弥勒とおなじくということを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心の人は如来とひとしと申すこころなり。p.591 御消息集(善性本)
往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
なんらか五念門。一つには礼拝門、二つには讃嘆門、三つには作願門、四つには観察門、五つには回向門なり。
いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願す、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。
出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園・煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく。菩薩は、入四種の門をして自利の行成就す。知るべし。菩薩は、出第五門の回向利益他の行成就したまえり。知るべし。菩薩、かくのごとく五念門の行を修して、自利利他して速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就したまえることを得たまえるがゆえに。無量寿修多羅優婆提舎願偈、略して義を解し竟りぬ。
往相 自利
還相 利他
自利と利他というものが成就した。 それが一言でいうと南無阿弥陀仏である。
その南無阿弥陀仏ひとつを受け取らせるために二種の回向というものを…これ全体がですから私たちにはとっては他力
問うて曰わく、何の因縁ありてか「速得成就阿耨多羅三藐三菩提」と言えるや。答えて曰わく、『論』に「五門の行を修して、もって自利利他成就したまえるがゆえに」と言えり。しかるに、覈にその本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もしおのずから仏をして言わば、宜しく利他と言うべし。おのずから衆生をして言わば、宜しく他利と言うべし。いま将に仏力を談ぜんとす、このゆえに利他をもってこれを言う。当に知るべし、この意なり。おおよそこれ、かの浄土に生まるると、およびかの
p.194 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)
宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。仰ぎて奉持すべし、特に頂戴すべしと。p.298 顕浄土真実証文類四(教行信証・証)
往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
願に言わく、18「設い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。仏願力に縁るがゆえに、十念念仏してすなわち往生を得。往生を得るがゆえに、すなわち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆえに、このゆえに速やかなることを得る、一つの証なり。
願に言わく、11「設い我仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。仏願力に縁るがゆえに、正定聚に住せん。正定聚に住せるがゆえに、必ず滅度に至らん。もろもろの回伏の難なし、このゆえに速やかなることを得る、二つの証なり。
願に言わく、22「設い我仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らしめん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱して、諸仏の国に遊び、菩薩の行を修して、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行を現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ」と。仏願力に縁るがゆえに、常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。常倫に超出し諸地の行現前するをもってのゆえに、このゆえに速やかなることを得る、三つの証なり。これをもって他力を推するに増上縁とす、しからざることを得んや。p.195 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 天親菩薩の『論』、註解して、報土の因果、誓願に顕す。
往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
「致使凡夫念即生」というは、「致」は、むねとすという。むねとすというは、これを本とすということばなり。いたるという。いたるというは、実報土にいたるとなり。「使」は、せしむという。「凡夫」は、すなわち、われらなり。本願力を信楽するをむねとすべしとなり。「念」は如来の御ちかいをふたごころなく信ずるをいうなり。「即」は、すなわちという。ときをへず、日をへだてず、正定聚のくらいにさだまるを即生というなり。「生」は、うまるという。これを「念即生」ともうすなり。p.544 一念多念文意
凡夫念ずれば即ち生ぜしむることを致す。聖全Ⅰp604 法事讚
おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一念と言うは、いわく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す。p.191 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)
能信 所信
「証」は「験」の意味がある
往相 未来。どこまでも、いのちある限りお育ての中にある。学んでいくことに終わりがない。目覚めていくことに終わりがない。いよいよ学べば学ぶほど深くお育てをいただく。
還相 過去。私がお育てをいただくところに身をおく。そのことを推し進めて下さる方々の世界にであう。
正信偈は還相の世界というものを讃嘆している偈文です。
しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、
p.203 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)
信心をうるというところに往相還相の二廻向にであう。
往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
不了仏智
明信仏智
私 は ーーー
存在 生き方
「如彼名義欲如実修行相応」とは、かの無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまう、しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なりと知らざるなり。また三種の不相応あり。一つは信心淳からず、存せるがごとし、亡せるがごときのゆえに。二つには信心一ならず、決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆえに。この三句展転して相成ず。信心淳からざるをもってのゆえに決定なし、決定なきがゆえに念相続せず、また念相続せざるがゆえに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆえ心淳からざるべし。これと相違せるを「如実修行相応」と名づく。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり、と。已上
p.213 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 信巻 真実信 釈文証 曇鸞大師の釈二文 『論註』(巻下)の文 破闇満願と実相身・為物身を示す一段(聖全314)
不如実修行といえること 鸞師釈してのたまわく 一者信心あつからず 若存若亡するゆえに
二者信心一ならず 決定なきゆえなれば 三者信心相続せず 余念間故とのべたまう
三信展転相成す 行者こころをとどむべし 信心あつからざるゆえに 決定の信なかりけり
決定の信なきゆえに 念相続せざるなり 念相続せざるゆえ 決定の信をえざるなり
決定の信をえざるゆえ 信心不淳とのべたまう 如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり
p.493 高僧和讃
「易行道」は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし。p.168 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 行巻 真実行 引文 釈文の一、中国の師釈 曇鸞『浄土論註』四文 (巻上)発端の文(教判文)(聖全279)
行信道 如来の本願が、はたらきをえて私たちの心のうえに、信となって成就していく如来のおはたらきがある。
信行道 一般の学び 聖道の学び 定散二善の学び
行信道(如来からの道)というものが、おこるばしょが次の
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
必至無量光明土 諸有衆生皆普化 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。
論主の一心ととけるをば 曇鸞大師のみことには 煩悩成就のわれらが 他力の信とのべたまう
天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまわずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし
絶対不二
信心決定とは
曇鸞大師
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
必至無量光明土 諸有衆生皆普化 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。
仏法聞き難し
聞いて理解するのが難しいんでなしに、本当に言い当てられるとか、本当に目が覚めるということは、ほとんどない。だいたい自分の都合のいいように聞いている。これはとれないんです。
まず第一に、私たちは迷いがとれるつもりで聞いているという深い迷いがあります。ですから人間というものは迷いの存在だと言われても、なかなかうなづかずに、はっきりするはずやと思うて聞いております。ですから真宗の教えで私たちは久遠劫からこの世までずっと迷いをかさねてきたのであるし、今も迷いの中にいるのであるし、この迷いを出ることはないと。こう言われていますけれども。このことに本当になかなかうなづきがたたないんです。
凡夫というのは迷いの位にあるものをいうんです。
その迷いの位にあるものの上に信心がおこると書いてあるんですね。「惑染凡夫信心発」
発 発(菩提)心
しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪について、また二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。「竪超」・「竪出」は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。
また横について、また二種あり。一つには横超、二つには横出なり。「横出」は、正雑・定散・他力の中の自力の菩提心なり。「横超」は、これすなわち願力回向の信楽、これを「願作仏心」と曰う。願作仏心は、すなわちこれ横の大菩提心なり。これを「横超の金剛心」と名づくるなり。横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといえども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。
p.237 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 信巻 三心一心問答 問答決帰 菩提心釈 二双四重の釈
とくに20願というところ、ここが人間の求めていく世界の行き詰まりの場所なんです。人間が必ずここで行き詰る。
この行き詰まりの場所で、人間がひるがえされる場所があるんだということです。
人間が起こす信心、人間が起こす菩提心でここまで来たんだけれども、ここからにっちもさっちもいかない。ここが人間がひるがえって、人間が求めていくというよりも、人間が求められているような世界。人間の方が、私たちの方が求められていた。そういう世界が、に、出あう場所なんですね。とくにそれは疑惑の問題をとおして開かれてくる。
19願『観無量寿経』の世界 諸善万行 要門
20願『阿弥陀経』の世界 念仏一つ 称名念仏一つ 真門
念仏一つというところに至るのは、なみたいていのことでないんです。なみなみならないことです。
念仏一つだ。お念仏一つしかない。ここまでいくちゅうのはね、なみたいていのことでないです。
諸善をたのむ心。もうちょっと、こうなりたい、ああなりたい、よくない。もうちょっとこうであったらいいのに。
そして当然、善をたのむ心というのは悪を恐れる心です。善をたのみ悪を恐れるというのが世間執というものです。
まず本当に自分を大事に生きたい、自分の人生を大事に思いたというならば、本当に大事に生きようという思いを起こせと。それがここで注意される菩提心です。
だから人間の起こす菩提心というと、真宗からすると、だめだ。浄土の大菩提心じゃなければだめだ。そういう風に言いがちですけどね。もと、要になるもの、まず、本当に自分を大事に、みんな自分が大事なんですよ。だけど本当に大事にしようと思う心を持ってくれと。これはなかなか難しいですよ。どうしたら自分を大事にできるか。難しいんですよ。
仏法というのは、先輩の言葉を学ぶんでなしに、先輩の言葉に自分というものを学んでいく。
親鸞聖人はこの20願、念仏一つといったところに、非常に大きな問題として、念仏一つなんだなと、わかったものがおちいる世界。それを親鸞聖人は懈慢界という言葉をおつかいになるんですね。真実の信心のものが行く世界は真実報土であるけれども、人間の思いで浄土に行こうというものは方便化土に生まれる。こういうふうに言われるわけです。その方便化土のことを懈慢界と言い表さして下さったのは源信僧都です。
源信広開一代教 偏帰安養勧一切 源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
専雑執心判浅深 報化二土正弁立 専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 極重の悪人は、ただ仏を称すべし。我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。
報土 真実報土の浄土
化土 方便化土の浄土
源信僧都が化土のことを懈慢界という言葉で群疑論というものを引いて、先輩の書物の中から『菩薩処胎経』というお経を引かれるんです。その中に化土のことを懈慢界と言ってる。この言葉で源信僧都が化土のことを言い表してくださって、親鸞聖人は、ああと、これではっきりした。いう非常に強い御恩を感じられた。
首楞厳院の『要集』に、感禅師(懐感)の『釈』(群疑論)を引きて云わく、「問う、『菩薩処胎経』の第二に説かく、「西方この閻浮提を去ること十二億那由他に懈慢界あり。乃至 意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生まれんと欲する者、みな深く懈慢国土に着して、前進んで阿弥陀仏国に生まるることあたわず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ず」と云云。この経をもって准難するに、生を得べしや。答う、『群疑論』に善導和尚の前の文を引きてこの難を釈して、また自ら助成して云わく、「この『経』の下の文に言わく、「何をもってのゆえに、みな懈慢に由って執心牢固ならず」と。ここに知りぬ、雑修の者は「執心不牢の人」とす。かるがゆえに懈慢国に生ずるなり。もし雑修せずして専らこの業を行ぜば、これすなわち執心牢固にして、定めて極楽国に生まれん。乃至 また報の浄土に生ずる者は極めて少なし、化の浄土の中に生ずる者は少なからず。かるがゆえに『経』の別説、実に相違せざるなり」と。已上略抄
p.330 顕浄土方便化身土文類六 本(教行信証・化身土 本) 要門釈、第一九願開説、観経の意 釈文引証 源信『往生要集』(巻下末)の文(聖全898)
懈慢界というのは、わかったというところに起こす慢心です。念仏一つやと、わかった(苦労した)ところに慢心を起こす。
まことに、われもひともそらごとをのみもうしあいそうろうなかに、ひとついたましきことのそうろうなり。
p.641 歎異抄
真に知りぬ。専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。かるがゆえに宗師(善導)は、「①かの仏恩を念報することなし、②業行を作すといえども心に軽慢を生ず。常に名利と相応するがゆえに、③人我おのずから覆いて同行・善知識に親近せざるがゆえに、④楽みて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆえに」(往生礼讃)と云えり。
p.355 顕浄土方便化身土文類六 本(教行信証・化身土 本) 真門釈、第二〇願開説『小経』の意 真門結釈 真門四失
saṃsāra の訳語。輪廻(りんね)とも訳す。
生死というたら、果てしない迷いを生きるあり方。迷いの存在のあり方。
それと、とどまるところがない。流転してしまう。流転輪廻。
流転してしまうということは、とどまろうとするものにおこることです。とどまろうと思わないものは別に流転とはいわない。何も問題ないんです。
ところがとどまる場所、とどまろうと思ったものが、とどまるところなく流され、退転し、流される。
時代に流されたり、人に流されて。自分の中でも自分の思いに流されますよね。
転というのは退転、くじけてしまう。
生きたいと思ったり、死にたいと思ったりするようなものです。そういう意味ではないですけどね。
本当は、とどまりたい者のうえに流転というものが、苦しみとして感じられるんです。
おちつきたい、自分が自分であることのできる居場所がほしいという時に流転輪廻が苦しみとして感じられます。
しかも、それが非常に深い問題として感ぜられるので、御和讃でも「久遠劫より流転せり」p.504 正像末和讃。昨日、今日、迷い始めたんじゃないんだ。非常に深い迷いの中におるんだ。あるいは「無明の長夜」p.646 執持鈔いつになったら夜が明けるんだちゅうようなもんです。
生死という言葉でそういう、うりべのなさ、「生死の苦海ほとりなし」つくべき岸がない。うるべない。
そういうあり方。
「惑染の凡夫」惑という字は、まったくそのようなものですね。或いは或いはというて、いうようなかたちで自分のとどまる……、ものが、場所がない。自分が自分で本当に自分であるということがない。
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
必至無量光明土 諸有衆生皆普化 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。
生死が生死と、迷いが迷いと、本当に知られるのは涅槃の智慧によってである。
生きてるということが知られるのは、死というものがそこに感じられてないと生きてるということも感じないです。
何かが知られるということは、そうでないものによって意識される。そういうあり方です。
ですから生死即涅槃というところが知られるところが真実の智慧にであったところなんです。
真実の智慧にであったところを獲信。往生を得る。こう言います。親鸞聖人の言葉の使い方です。
それまでは「往生を得る」と言ったら、命終わることを言ってました。親鸞聖人も、もちろんその言葉づかいもあります。だけれども、はっきりと信心を得るところが往生を得る場所だ。
ですから親鸞聖人は、往生を得た。往生が命終わるときに至って、往生がとげられるという言葉を使われるんです。
これは真実の世界に、照らされ、呼び覚まされ、そしてお育てをいただくことが、往生人の生活だということですね。真宗門徒の生活というものは聴聞に極まる。ずっと声なき声に、南無阿弥陀仏の響きに、呼び返され、そしてお育ていただいて生涯を終えていくだと。そういうことでございます。
五正行 読誦 ・観察・礼拝・称名・讃歎供養 。 専修専心
「正」とは五種の正行なり。「助」とは名号を除きて已外の五種これなり。「雑行」とは正助を除きて已外をことごとく雑行と名づく。これすなわち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
p.341 顕浄土方便化身土文類六 本(教行信証・化身土 本) 要門釈、第一九願開説、観経の意 三経通顕(真仮分判) 聖浄二門釈 正助雑釈
おおよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集)と云い、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す、感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)と云えり、信和尚(源信・往生要集)は感師に依れり、空聖人(源空・選択集)は導和尚に依りたまうなり。経家によりて拠りて師釈を披くに、雑行の中の雑行雑心・雑行専心・専行雑心なり。また正行の中の専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。かるがゆえに極楽に生まるといえども、三宝を見たてまつらず、仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願、良に由あるかな。
p.343 顕浄土方便化身土文類六 本(教行信証・化身土 本) 要門釈、第一九願開説、観経の意 三経通顕(真仮分判) 聖浄二門釈 雑行雑修の異名と結釈
いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、一声すなわちこれ一念なり、一念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり、正行すなわちこれ正業なり、正業すなわちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。
p.192 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 真実行 総結 行一念釈 釈義 一念転釈