• 大分県津久見市にある真宗大谷派の寺院です。

正信偈講座 23~ 佐野明弘

Akira Kotaniさんのユーチューブチャンネルから載せました。

第23回 正信偈講座 2013年4月2日

龍樹 2世紀インドに生まれる。

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺  釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく、南天竺に、
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見  龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を摧破せん。
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽  大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と。
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽  難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。

退屈 退転

念仏に出あう、念仏の教えは本願に出あうということが不退の位(歓喜地)につくということ。
親鸞聖人は正定聚不退の位につくという言い方をします。

正定聚 必ず浄土に生まれる。そして仏になっていくことが正しく定まったものという意味です。

即得往生 
信心を獲る 親鸞聖人にとって仏になることができるんだということが、本当に、なんでそんな歓びになるんだということが一つ考えねばならないんです。
 私たちは、こうして人間に生まれてきて、人間が周りの悲しみや、何か悲しい思いをしたり、その時に、自分が本当に救われていくような世界を生きようと思うたら、周りに悲しんだり苦しんだり人がいたら、そうできなんですね。特に家族でも家族の中に苦しんでおるものがおったら自分も苦しくなりますね。そうするとその時に助けてあげたい、力になってあげたいと思うんだけれでも、それが非常に難しいんですね。人が人を救うということが、なかなか本当に難しい。どうなることが本当に救いになるのか、どうなることが….、
 ですからなにが本当に人間が救いになるのかというのは非常に難しいんですね。

梶 大介(1923-1993年)いし・かわら・つぶて舎

「能令瓦礫変成金」というは、「能」は、よくという。「令」は、せしむという。「瓦」は、かわらという。「礫」は、つぶてという。「変成金」は、「変成」は、かえなすという。「金」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。摂取のひかりともうすは、阿弥陀仏の御こころにおさめとりたまうゆえなり。文のこころは、おもうほどはもうしあらわし候わねども、あらあらもうすなり。ふかきことは、これにておしはからせたまうべし。この文は、慈愍三蔵ともうす聖人の御釈なり。震旦には、恵日三蔵ともうすなり。p.553 唯信鈔文意

平等覚 仏さまのまなざしなんだと。これは仏にならなければ得られないまなざしなんですね。いのち生きるものを本当にすべて尊く見出すことのできるまなざしというのは、凡夫にはないんですね。仏さまに成る。さとりを開いて初めて、そういう他が救われ、自らも救われていくような、さとりの世界が初めて開くんだと。
だから仏さまの世界というのは、自分も他も共に救われていくような世界。それが大乗という教えなんですね。
それを自利利他円満した。これが仏さまのあり方。自利と利他。自分も救われ、そして人も救われていくような世界が成就している。

龍樹菩薩が、本願念仏に出おうたそこが、仏に成ることが定まる不退の位、そういうものが龍樹菩薩によってあかしされました。そのことに非常に親鸞聖人は恩徳を感じておられたということですね。

いつのころからか、人間は迷いの存在だという、そういう意識がなくなってしまったんですね。
人間というものは迷いの存在で、悲しい存在だという。そういう気持ちが、うすれてしまったから、互いをいたわるような気持ちも、うすくなってきているのが現代でないですか。私もその一人でしょう。
迷いの身であることを見失ってしまった。だから迷いによって退転し、迷いによって退屈していくということを、非常に深く悲しむ心もなくなっております。どうしても迷いを出て、生死を出でようというそういう意識がないですね。

それからもう一つ、だから人間というものの、ものの見方が、仏教によって見てきた人間と、今、自分は、自分は人間だと思っている人間の、中身が違うんだと思うんでしょう。

煩悩

根本煩悩. とんじんまん悪見あっけん薩迦耶さがや見・邊執見・邪見・見取見・戒禁取かいごんしゅ見)
随煩悩  小随煩悩 忿ふんこんふくのうしつけんおうてんがいきょう
     中随煩悩 無慚むざん無愧むぎ
     大随煩悩 掉挙じょうご惛沈こんじん不信ふしん懈怠けたい放逸ほういつ失念しつねん散乱さんらん不正知ふしょうち 

仏意測り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮偽にして真実の心なし。
p.225 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 信巻 三心一心問答 第二の問答、三心別相釈(仏意釈) 至心釈 至心の体相

急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。
p.228 顕浄土真実信文類三(教行信証・信) 信巻 三心一心問答 第二の問答、三心別相釈(仏意釈) 信楽釈 信楽の体相

「即」は、すなわちという。ときをへず、日をへだてず、正定聚のくらいにさだまるを即生というなり。「生」は、うまるという。これを「念即生」ともうすなり。また「即」は、つくという。つくというは、くらいにかならずのぼるべきみというなり。世俗のならいにも、くにの王のくらいにのぼるをば、即位という。位というは、くらいという。これを東宮のくらいにいるひとは、かならず王のくらいにつくがごとく、正定聚のくらいにつくは、東宮のくらいのごとし。王にのぼるは、即位という。これはすなわち、無上大涅槃にいたるをもうすなり。信心のひとは、正定聚にいたりて、かならず滅度にいたると、ちかいたまえるなりp.544 一念多念文意

「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。p.535 一念多念文意

この二尊の御のりをみたてまつるに、すなわち往生すとのたまえるは、正定聚のくらいにさだまるを、不退転に住すとはのたまえるなり。p.536 一念多念文意

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆえに、これを「歓喜地」と名づく。これを初果に喩うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う。
p.190 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 真実行 総結 他力、行徳を挙げて行信を勧む 正説

念仏の行者が現生に往生がさだまる境地を歓喜地とする。真宗新辞典

本師龍樹菩薩は 大乗無上の法をとき 歓喜地を証してぞ ひとえに念仏すすめけるp.490 高僧和讃
親鸞聖人左訓「歓喜地は正定聚の位なり。身によろこぶを歓といふ、こころによろこぶを喜といふ。得べきものを得てんずとおもひてよろこぶを歓喜といふ」

聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいしことを、p.640 歎異抄

目覚めによって救われていく世界。仏法の世界は、仏になる法に出あったら、どんな凡夫も仏になるんです。そういう法なんです。だから法に目覚める。それが仏法。仏に成る法があるわけですね。阿弥陀が阿弥陀に成った法。それが衆生が仏になる法でもある。
私たちが失っているのは悟りでなくて迷いの方です。迷いの悲しみを失っている。その迷いの悲しみが取り戻されたときに、人間を超えた世界を感覚するですね。

私たちが宿業観というものを失っている。「無始よりこのかた」とか、「久遠劫より」流転して、それは暗いような話に聞こえるけれども、いのちの深さというものを見つめてきた智慧の言葉です。

憶念弥陀仏本願 自然即時入必定  弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る。
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩  ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。

「念必定のもろもろの菩薩」は、もし菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱することあたわず。大悲心を得て大人法を成ず。乃至 これを「念必定の菩薩」と名づく。
p.163 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 行巻 真実行 引文 論文 龍樹『十住毘婆沙論』の四品九文 「地相品」の文 歓喜の縁由を示す文

人よくこの仏の、無量力功徳を念ずれば、即のときに必定に入る。
p.166 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 行巻 真実行 引文 論文 龍樹『十住毘婆沙論』の四品九文 「易行品」の文 弥陀章の偈讃(聖全260)

第24回 正信偈講座 2013年6月4日

「9条を抱きしめて」DVD ―元米海兵隊員 アレン・ネルソンが語る戦争と平和― 憲法9条は、核兵器より強いのです。PTSD(Post Traumatic Stress Disorder : 心的外傷後ストレス障害)

平和と念仏

 平和というものは、それぞれの求めている幸せが違うと、平和を求めるというかたちで戦争が起こる。そういう一つの具体的な事実を見逃してはならない。平和のために戦争をするということが肯定されてしまう。平和のために戦争をするというんです。だからアメリカでも兵士を募集するときにピースキーパー、平和のために戦おう。こう言うんですけども、平和のために戦うときにおこるのは戦争というものです。だから平和には、平和にたっする道は実はないんですね。互いに求めてる平和が違うんで、決して平和を求めて平和が実現することがないんです。
 じゃあどうしたらいいんだ。平和であることしか平和への道はないんです。

 怒りといっしょですね、お釈迦さまが、怒りは怒りによって、おさまることは決してない。怒りというものは、相手に怒りをぶつけてすむかというと、決して怒りは怒りによっておさまることはない。怒りはあらたな怒りを生むばかりだ。怒りなき心が怒りを超えていくんだ。
 だから平和への道はない。求めれば求めるほど平和を求めて戦わねばならないという矛盾におちいる。
 平和への道はない、平和こそが道だ。こういうのが仏法の教えとまったく一緒、一緒というか真理なんですよ。

 だから私たちが聞いてる教えも一緒です。念仏をして往生するんではない。念仏が往生の道なんだ。私たちが念仏して浄土にいって助かるんではなくて、往生の成就したすがたを南無阿弥陀仏というんだ。私たちが南無阿弥陀仏と言ってから、助かっていくような道が開くんではないんだ。南無阿弥陀仏というのが、すでに往生の成就したすがたを南無阿弥陀仏というんだ。こっちからつける道ではないんだ。

日本国憲法の三原則 「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」

退転 退屈

 生きている意味がないんじゃないんだろうか、本当は、今日までこうして生きておるけれどね、それぞれいろんなことをのぞんで、そして未来に希望をたくして生きてるけれども、無意味なんじゃないんだろうか。ふと思いませんか。そうすると生きていく気力少しなくなりますね。死にたくなったりしますよ。そんな思いを一度も起こしたことのない人はいないでしょう。人生において道行きが見えなくなったり、歩むことができなくなったり、方向が分からなくなったりすることというのは人生の危機ですね。それが退転、退屈の恐ろしさです。

 それが親鸞聖人においては、龍樹菩薩がこの世に出られて、念仏に会うということは決して、私たちの思いや、条件や、いろんな縁によって、くずれることのない道だと。そのことを身をもって明らかにしてくださったのが龍樹だ。こう言うんですね。
 もっと言うとね、どんな思いになっても、どんな人生であっても、それを受け止めているような世界がある。それが阿弥陀の世界。だから、南無阿弥陀仏とその世界を我々に開かせる。私たちはその世界に触れることができるんだと言うんです。念仏をとおして。それがまず一つです。

難行 易行

 そして龍樹大士が教えて下さっていることがもう一つ、行に難あり易あり。人間の歩み、仏道の歩みに、難行と易行。こういうことをおっしゃってくださったんだと。

顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽  難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。

 この世において、自分の力で、自分の心を整え、身を整え、言葉を整えて、そして優しい穏やかな人のことを思えるような人間になっていこうと、その極まりが仏さまです。そういうものになろうという。それは難行だというんですね。それに対して易行というのは浄土の教えだ。この世においてはとても仏さまに成ることは難しいので、浄土に生まれて、仏さまの世界に生まれて、今まさに仏さまのおられる世界に生まれて、その浄土の力で仏にさせてもらおうという。それが浄土の教えです。

孟母三遷の教え(もうぼさんせんのおしえ)
 孟子の母は、はじめ墓場のそばに住んでいたが、孟子が葬式のまねばかりしているので、市場近くに転居した。ところが今度は孟子が商人の駆け引きをまねるので、学校のそばに転居した。すると礼儀作法をまねるようになったので、これこそ教育に最適の場所だとして定住したという故事。

 環境によって人間は影響をすごく受けるわけです。だから娑婆世界の中、この穢土と言われる世界の中において、心を清くしていって、優しい心になる。無理だというです。だから浄土に生まれて、浄土の功徳によって、そこで仏さまにさせていただこうという。それが浄土の教えなんですね。なんとなくおわかりになるでしょう。環境が人をつくる。浄土においては仏さまが生まれてくるんです。穢土においては凡夫が生まれてくるんです。ですから、そういうかたちで難と易というのがありますよということを言うたんです。まずはですね。

 ですからずっと聖道の教え。一般的な仏教の教えでは、この世で悟りを開くほうが常道だと言われています。で環境を変えねばならないのは、この世では仏になる根性がない軟弱な人が、浄土へ行って、仏さんにさせてもらうんや。そういう風に受け取られていたんです。
 だから一般的には、難行といわれる聖道門が本筋で、浄土に生まれるというのが方便の教えだ。こう言われてきたわけです。

 ところが、それがまったく、ひっくり返ってしまった。とくに歴史的に完全にひっくり返して一宗を立てたのが法然上人ですね。そしてその道こそが、絶対他力の道こそが、念仏一つの道こそが、浄土の道こそが大乗の至極であって聖道の教えというもののほうが実はその方便だったんだと言ったのが親鸞聖人なんですね。
 そこで見えてくるのは何かと言ったら、人間の抱えている問題の深さや、人間の迷いの深さというものが見えてくる。そこに人間が仏法を聞くということの本当の意味が初めて明らかになってきたと言ってもいいんです。

難 易

 難行のほうが正当であって易行というのは方便の道だと。力のないもの、根性のないもの、気力のないもの、そういうものが環境の力によって仏さまにさせていただこう、そういうことだったんですね。ところが親鸞聖人が難行易行ということを龍樹大士が言ってくださったというのは、まったく違う意味に、まったく違うものとしていただかれているんです。

 それは行に難と易があるんだけれども、行じていく、その行、人間がする行の中に、難しいものと簡単なものがあるという意味ではないんですよ。人間がする行の中に、簡単な行と難しい行がある。つまりハダーとかイジィアとかね。そういう意味で難と易があると言ってるのではなくて、人間が行う行は全部、難ですよ。何やっても人間というのは難しいもんですよと言っている。一生懸命、いいことをやろうと思っても難しいもんですよ。なかなかそうはなりませんよ。

 そして易というのは何か。易というのは人間がする行ではなくて、どこまでも難しい難の存在である人間を、難を難とせずして救いとろうという如来の行を易行という。ここでまったく意味が変わってしまうんです。

 以前は人間の行に難しいものと、より易しいものがある。こういう分類だったのが行に難と易があるというのは、難行というのは人間の行のこと。難は人間の行である。それに対して易というのは如来の行である。易行というたら人間の行ではなくて他力の行である。

 他力の行というたら、人間にはできないということなんですね。私たちが、他力の行を、私がしますと言ったら、自力でしょう。人間がやろうと思うことは全部、自力なんです。人間が思うこと、人間がなそうと思うことは全部、自力ですね。そしてその自力が難である。

このゆえに「行有難易」というは、行につきて難あり、易ありとなり。難は聖道門、自力の行なり。易は浄土門、他力の行なり。p.529 尊号真像銘文

 難行である、この娑婆世界である難しい世界の中で仏に成っていくという難行。それに対して浄土に生まれていく方が易行と。こう、その浄土に生まれる行というのは、やっぱり人間がする。その場合にはいろんな行があるわけですね。仏さまを思いうかべていく行もある、その行をつんで浄土に生まれよう。あるいは親孝行をしたり、いのちを大事にして、ありんこを踏まないようにしたり、こういうのを功徳なんですね。功徳を積むんです。その積んだ功徳によって浄土に生まれたい。真面目な心ですね。真宗の教えを聞く我々はそういうのが、おろそかなんですけどね。そうやって浄土に生まれる。あるいは南無阿弥陀仏という名号をとなえることを行として、その行によって浄土に生まれる。そういう形が易行だと言われておった。

 ところが親鸞聖人は、それらも全部、いうてみれば難なんです。易行じゃないんです。なぜかと言うと、よいことをすると言ってもなかなか難しいもんで、どうですか、よいことばっかりできますかね。しているうちに、だんだんいらいらしてくるんじゃないですかね。静かな心でおろうと思うておっても、なかなか難しいでしょう。本当に難しいもんですね。大勢でいればやかましいと思いだし。一人でいればさみしいと思いだし。人がいっぱい来ればうっとうしいと思いだし、誰も来なければさみしいだし。本当に面倒なもんですね。

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。
p.340 顕浄土方便化身土文類六 本(教行信証・化身土 本) 化身土巻 要門釈、第一九願開説、観経の意 三経通顕(真仮分判) 機相広述 随釈

 だから人間の心というものは難しいんです。ですから、よいことをしようと思っても悪いことをしてしまったり、よいことをしたことが、かえって執着のもとになったり。けっきょく執着ですから悪いことになってしまう。でも悪いことをしたことで、すごく反省して二度とこういうことがないようにと思う心はよい心でしょう。だから、いいとか悪いというのは難しい。廃悪修善はいあくしゅぜんというのは難しいんですね。難しいから、悪をやめて、悪が負けて善が勝つようなドラマを見るとみんなすっきりするんです。本当はそういうわけにはいかないんです。

 そしてもう一つは息慮凝心そくりょぎょうしん 、心をしずめていく行。これも難しいです。じゃうそういうのはもう無理だから念仏一つをとなえていこう。そんなら何回となえたら浄土へ行けるんや。そういう思いが浮かんできますね。念仏したら思いが二つうかぶんです。何回となえたらいいんやろうという思いがまずうかびます。これはクーポン式浄土往生。クーポン券のハンコを押してもらっていくと何回目で賞品が当たるとかね。ところがね念仏の場合それがないんですよ。何回となえたら往生がきまります。お経に書いてないんです。
 もう一つはね、本当に口で念仏したぐらいで浄土に生まれられるんだろうか。思います。思いませんか。ちょっとなんか足らんように思うでしょう。そうすると心境を整えて、念仏をとなえる気持ちをいい心でとなえなければいかんと思うようになります。ありがたく思うてとなえるとかね。熱心にとなえるとかね。心を一つにしてとなえるとかね。思うんです。それもまた難しいんです。本当に心が一つになったりしないです。それができるんだったら、かなりの行者です。だから全部、難行なんです。なんで難行かというと人間の心でやっているからです。だから人間の心でやるものは、みな難。

「難は聖道門、自力の行なり。易は浄土門、他力の行なり」 「自力」とは人間の自力です。自力とは人間の心で行う行です。

他力と言うは、如来の本願力なり。p.193 顕浄土真実行文類二(教行信証・行) 行巻 重釈要義 他力釈 正釈

難易対
とは三業修善不真実の心なり、とは如来願力回向の心なり。p.457 愚禿鈔

「三業(身・口・意)」 身を使い、口を使い、思いをらして私たちは幸せを願っていますということです。それが「不真実」いいかげんという意味ではなくて、まことになっていかない、本当の自分の幸せというものが成就しないということですね。真実になっていかない。本当のものが得られない。求めているにもかかわらず本当のものに出あえない。それを「不真実」というんです。いいかげんではないんです、一生懸命やっているにもかかわらず。今日までいいかげんに生きてきた人はあんまりいないと思いまよ。生きてきたそのことが何か本当のことになっていかない。なにか死にきれないものをもっている。そういうことです。だからその人間存在、人間のありようを難といっているんです。修業が難しいといっているんじゃないんです。人間というものが難しいと言っているんです。

そして、その難しい人間をどうにか、なおしてやろうというのでなくて、人間を生きるということは、むずかしいことなんだぞ。その難しいその人間のそのままで受け止めていく。それが易という。如来の本願力は、難を難とせずそのまま受け止めていく、そういう世界がある。

 具体的になにか言わないとわかりにくいんですけどね。何かがあって、恨みの心がある、恨みの心があるとね、苦しいんです。本人が。相手を恨んでいるようだけれども、その恨みの心は自分を焼くんですね。本人もわかっているんです。恨みの心を許すことができたら、自分も楽になると、わかっているんですけど、許すことができないで苦しむ。そこが難しいとこなんです。頭ではわかってても、できないんですね。許しなさい、そうすれば、あなたもその苦しみから救われますよ。それはわかるけど、どうしたらそんなことができるのか教えてくれというんです。どうしたらそんな風になれるんか教えてくれ。そんな道はないんですね。

 でも、じゃあ如来はどういう風にいうか、苦しみからのがれることができない、許すことができなくて苦悩しているそのままを、如来は尊いと受け止めていますよ。悩みから恨みから離れることができなくて苦しんでいる、その苦しみを如来は信頼していますよ。
 如来は一人も救いもれがない、すべてのものを受け止めると言ったからには、許すことができないで苦しんでいる者も、その苦しみにおいて受け止めていこうと。そのすがたが、南無阿弥陀仏である。それを易行と。

 私たちの思っている人間の都合をよくしてくれる宗教じゃあないんです。人間というものを本当の意味で照らし出すような宗教です。照らし出すのは光だ。そしてその光は智慧だ。

 そうやって人間を照らし出し、そこにおいてそれが自分なんだと、うなづくことができるというんです。そのうなづきにおいて、私たちは自分をせめていた自分から少し解放される。

難信

 とにかく、念仏一つやということを、いただこうとした瞬間に難行に入ってしまいます。
難行の教えというのが聖道の教えと言われますけれども、真宗の教えというのは難信の法を説いてると言われますね。難行の教えではなくて難信の教えなんです。こういう風にみると信じるのが難しいんだと読めますね。確かに難しいんです。ところがね、難しいところを、がんばって信じようと思ったとたんに難行になってしまうんです。信じようと思う心は人間の心ですからね。念仏一つやと決めようと思ったらもう難行です。人間の心です。信心一つを決定して、信じきろうなんて思ったら難行です。信じよう信じようと思っているのは信じてないからです。

 だから難信というのは、信じ難いというのは人間が手出しができるような信心ではなくて、言い当てられたり、言い当てられる、照らし出されて、うなずくような法だから、それを難信の法というんです。
 人間を照らし出す光。人間を呼び覚ます声。そういうものに出あって、うなづく心を信心という。それは人間からはできない。照らし出され呼び覚まされて初めてうなづくことのできる世界。それを難信の法という。
 絶対隔絶しているんだという、人間の手出しのできる世界ではなく、人間を超えて人間を照らし出してくるような世界がある。その世界に目覚めてくれ。その世界に目覚めると同時にその世界において照らし出されている、あるいは呼び覚まされた自分に出あう世界だ。そういう大きな意味がこの難と易という言葉で表現されているわけですね。

難といったら人間世界。人間の思い。人間の希望。人間の努力。それらはみな、そらごと たわごと。
易といったら如来回向の世界。そこには隔絶しているものがあるんです。人間のほうからつける道がないんです。ただ一つ如来の世界からとどいてくる無碍の一道。南無阿弥陀仏。それが絶対他力の大道といわれるものです。

 言い訳や、正当化をして、自分で自分を救おうと思っていたけれども、どこまでやってもそれが救いにならなかったというのが、要するに人間がであるということなんです。

 ところが全く逆転して、そのことを認めた瞬間に逆転して、自分というものが新たに、いただきなおされることがあった。それは自分の力ではないですね。そういう出来事にあった。そういうのを他力というんです。ああそうであったか。罪を認めた瞬間に、罪が許されたわけではないけれども解放されてるんです。許されない罪を背負って生きることができるようになった。

 それまでは逃げ回ってたんですよ。はっきり言うと。逃げ回っている意識はないですよ。正当化し自分で自分でなんとかしようと思って苦しんでる。だからというのは私たちのそういう、自分をうまいことやろう、なんとかしようという人間の心。
 易というのは、それがひっくり返るような、ひっくり返って、返って新たに自分をいただきなおすことができるような、そういう出来事なんですね。

第25回 正信偈講座 2013年9月8日

龍樹

八宗綱要はっしゅうこうよう』 凝然ぎょうねん(1240―1321)

第26回 正信偈講座 2014年1月10日

第27回 正信偈講座 2014年1月10日

第28回 正信偈講座 2014年4月20日

第30回 正信偈講座 2014年6月10日

第31回 正信偈講座 2014年10月1日

第31回 正信偈講座 2014年12月16日