1985年1月19日 平野修(1943-1995)
教行信証
おおよそ誓願について、真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行願は、諸仏称名の願なり。その真実の信願は、至心信楽の願なり。これすなわち選択本願の行信なり。その機は、すなわち一切善悪大小凡愚なり。往生は、すなわち難思議往生なり。仏土は、すなわち報仏報土なり。これすなわち誓願不可思議、一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。P203
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。『歎異抄』P627
『選択本願念仏集』源空集に云わく、南無阿弥陀仏往生の業は念仏を本とす、と。
また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。已上 『教行信証・行』P189
生死
智慧 愛(慈悲)
知識
しかるに正真の教意に拠って、古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して、正・像・末法の旨際を開示す。 『教行信証・化身土 本』P358
五十二位 修行の階位 十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚
専門語
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 『歎異抄』P626
和讃
鴨長明 『方丈記』
三國連太郎 白い道
しかるに濁世の群萠、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといえども、真なる者は、はなはだもって難く、実なる者は、はなはだもって希なり。偽なる者は、はなはだもって多く、虚なる者は、はなはだもって滋し。『教行信証・化身土 本』P326
菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあたをなす
頓教毀滅のしるしには 生死の大海きわもなし 『正像末和讃』P501
半満・権実の法門に入る
悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。『教行信証・化身土 本』P356
たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。『歎異抄』P627
一 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々 『歎異抄 4章』P628
阿弥陀如来 世尊
仏あり 如来あり
仏ありということを仏がいっておる。 他力
諸仏称名の願
一七 たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。
一には外道の相善は菩薩の法を乱る。 『浄土論註』