我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉づ。
我、他力の救済を念ずるときは、我、物欲のために迷はさるること少く、我、他力の救済を忘るるときは、我、物欲のために迷はさるること多し。
我、他力の救済を念ずるときは、我が処するところに光明照らし、我、他力の救済を忘るるときは、我が処するところに黒闇覆う。
嗚呼、他力救済の念は、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟逹安楽の浄土に入らしむるが如し。我は実にこの念によりて現に救済されつつあるを感ず。もし世に他力救済の教えなかりせば、我は終に迷乱と悶絶とを免れざりしなるべし。しかるに、今や濁浪滔々との闇黒世裡に在りて、つとに清風掃々の光明海中に遊ぶおるもの、その大恩高徳、あに区々たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや。
諸仏の国土の天人の類は、自然に善を作して、大きに悪を為らずは、開化すべきこと易し。今我この世間において仏に作りて、五悪・五痛・五焼の中に処すること最も劇苦なりとす。群生を教化して、五悪を捨てしめ五痛を去けしめ五焼を離れしめ、その意を降化して、五善を持たしめて、その福徳、度世・長寿・泥洹の道を獲しめん」と。p.66 仏説無量寿経巻下 悲化段(お釈迦様の大悲の教化)
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。p.627 歎異抄
自然作善
自力作善
それ出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、p.679 改邪鈔
他力の信仰に入る根本的勝義は自力の修業ができうることのように思うことである。その自力の修業ということはいろいろあれども、そのもっとも普通のことは、われらの倫理道徳の行為である。この道徳行為が立派にできるものであると思うている間は、到底、他力の宗教には入ることができぬ。しかるに倫理道徳について、まじめにに実行を求むる時は、その結果はついに倫理道徳の思うとおりに行い得らるるものでないことを観知するようになるのが実に宗教に入るための必須条件である。
建前 理性
本音 感情 気分
本願とは本音です。 金子大栄
宜しく自ら決断して、身を端しくし行を正しくし、益すもろもろの善を作りて、己を修し体を潔くし心垢を洗除し、言行忠信あって表裏相応し、人能く自ら度して転た相拯済して、精明求願して善本を積累すべし。
p.65 仏説無量寿経巻下 正宗分 広顕衆生往生因果 顕通悲化(悲化段) 広示欣浄厭穢(善悪段) 挙苦令厭穢 挙三毒苦令厭(三毒段)明如来悲化 仏印嘆述成 勧往生行
真実の道徳は「宜自決断(宜しく自ら決断して)」
衷心の要求 人間の本音 本当にしたいこと 阿弥陀の本願
信心の智慧が決断する
関係の綜合体として在る 今日の私
時々刻々に変化する 現実
現実というものは、単なる私たちの認識の対象ではなくして、私に決断を迫るものなんです。現実から私たちが、決断が問われている。
現実認識と自己表現とは一つなんです。宜自決断
人さまの手本になるようなことをすることが、仏法を聞いたものの生活やぐらいに安易に思っている人がおおいんやけども。そんな話じゃありません。
本当に信心の智慧にもとずく決断の生き方をさせてもらうことなんです。それが始まることなんです。
真実の決断があってこそ救いになるんです。決断のないところに救いはない。
それが仏法です。仏法は特別なことを言ってるわけじゃないんです。道理にかなったことを教えてくださっているわけですから。
暁烏敏 「助かるということは、何をやっても差し支えがないといえる身になること」
自力無功の自覚がはっきりしたからです。