往還回向由他力 正定之因唯信心 往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣・八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。宗師の「専念」と云えるは、すなわちこれ一行なり。「専心」と云えるは、すなわちこれ一心なり。p.240 顕浄土真実信文類三(教行信証・信)
国家を一つの宗教としている世界でもまれな_日本の事情です。
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。
発 おこる
『論の註』に曰わく、かの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、発無上菩提心を要す、とのたまえるなり。
また云わく、「是心作仏」は、言うこころは、心よく作仏するなり。「是心是仏」は、心の外に仏ましまさずとなり。譬えば、火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもってのゆえに、すなわちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなわち火となるがごときなり。p.242 顕浄土真実信文類三(教行信証・信)
自灯明・法灯明
必至無量光明土 諸有衆生皆普化 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。
謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。
往相の回向について、真実の教行信証あり。
諸仏称名の願 17願 浄土真実の行 選択本願の行
至心信楽の願 18願 正定聚の機
必至滅度の願 11願 難思議往生
二つに還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。
すなわちこれ「必至補処の願」より出でたり。また「一生補処の願」と名づく。また「還相回向の願」と名づくべきなり。 22願
光明無量の願 12願
寿命無量の願 13願
無量寿仏観経の意
至心発願の願 19願 邪定聚機
双樹林下往生
阿弥陀経の意なり
至心回向の願 20願 不定聚機
難思往生
摂法身 12願 13願 17願
摂仏土 摂浄土 31願 32願
命は鴻毛(こうもう)より軽し
必至無量光明土 諸有衆生皆普化 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。
おおよそ大信海を案ずれば、P236
おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず・頓にあらず・漸にあらず・定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず・有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。P236
道綽(562~645)
『安楽集』に云わく、『大集経』の「月蔵分」を引きて言わく、我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得る者あらじ、と。当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。P338
禅定(ぜんじょう)
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称 万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅、同じく悲引す。
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果 一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果P206
摂法身 摂浄土 摂衆生
『涅槃経』 悉有仏性
仏法を学ぶと仏法が分かるんでなしに、自分の身が決まってくる。どんな身だ、迷いの身です。私たちの思い方や行動では、うめられないようなものをかかえている。でもそのままでおれないから、なんとか喜びや生きがいや、人生の意味を見出そうとして迷うんです。なんとかなるんではないかという....最も深い迷いです。
1 本師道綽禅師は 聖道万行さしおきて 唯有浄土一門を 通入すべきみちととく
2 本師道綽大師は 涅槃の広業さしおきて 本願他力をたのみつつ 五濁の群生すすめしむ
3 末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまえ
ゲノム
植松聖 やまゆり園事件
辺見庸 月
乃木 希典 1849 – 1912(大正元年)
大逆事件
4 鸞師のおしえをうけつたえ 綽和尚はもろともに 在此起心立行は 此是自力とさだめたり p.494 高僧和讃
まず、自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがいて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしな(為成)して、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。 p.594 親鸞聖人血脈文集
おためごかし
「死か再生かーあくまで無痛をよそおいながら、ますます苦しみに充ち満ちていく世界の、真の痛点とは
どこだ?」辺見庸 月
人間が念仏をするということは大変なこと。日常の中で念仏するのではないんです、自分の人生に念仏を取り入れてくるんではないんです。むしろ日常を生きて日常に埋没している私たちを、もう一度、人間に呼びかえす、そういう世界ですね。
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。教
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称 万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。行
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅、同じく悲引す。信
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果 一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむと、いえり。証 P206
自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。P627『歎異抄』
おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。P626『歎異抄』
よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。P629『歎異抄』
依経段
依釈段 総讃
龍樹 天親 曇鸞 上三祖 顕大聖興世正意 大聖興世の正意を顕し、 従法 向機
道綽 善導 源信 源空 下四祖 明如来本誓応機 如来の本誓、機に応ぜることを明かす。 従機 向法
『安楽集』 『大集経』
顕示難行陸路苦(龍樹) 依修多羅顕真実(天親) 報土因果顕誓願(曇鸞)
唯明浄土可通入(道綽) 善導独明仏正意(善導) 本師源空明仏教(源空)
(安楽集)ここをもって、玄中寺の綽和尚の云わく、しかるに修道の身、相続して絶えずして、一万劫を径て、始めて不退の位を証す。当今の凡夫は、現に「信想軽毛」と名づく、また「仮名」と曰えり、また「不定聚」と名づく、また「外の凡夫」と名づく。未だ火宅を出でず。何をもって知ることを得んと。『菩薩瓔珞経』に拠って、つぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆえに「難行道」と名づく、と。
また云わく、教興の所由を明かして時に約し機に被らしめて、浄土に勧帰することあらば、もし機と教と時と乖けば、修し難く入り難し。『正法念経』に云わく、「行者一心に道を求めん時、常に当に時と方便とを観察すべし。P358
もし時を得ざれば方便なし、これを名づけて失とす、利と名づけず。いかんとならば、湿える木を攅りて、もって火を求めんに、火得べからず、時にあらざるがゆえに。もし乾たる薪を折りてもって水を覓むるに、水得べからず、智なきがごときのゆえに」と。『大集月蔵経』に云わく、「仏滅度の後の第一の五百年には、我がもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固を得ん。第二の五百年には、定を学ぶこと堅固を得ん。第三の五百年には、多聞読誦を学ぶこと堅固を得ん。第四の五百年には、塔寺を造立し福を修し懺悔すること堅固を得ん。第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟あらん。微しき善法ありて堅固を得ん。」今の時の衆生を計るに、すなわち仏、世を去りたまいて後の第四の五百年に当れり。正しくこれ懺悔し福を修し、仏の名号を称すべき時の者なり。一念阿弥陀仏を称するに、すなわちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでに爾なり、いわんや常念を修するは、すなわちこれ恒に懺悔する人なり。
また云わく、経の住滅を弁ぜば、いわく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、特にこの経を留めて、止住せんこと百年ならん、と。
また云わく、『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。已上P359
当今 末法
『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』(岩波ブックレット) – 2019/7/6 安藤 泰至 (著)
宗祖親鸞聖人 御誕生八百五十年 立教開宗八百年 慶讃法要 テーマ
南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう
本当に人間を救う教え、宗教というのはないのではないかな。真宗だけは別だと言いたいかもしれませんけどね。
この私たちが展開している世の中で、人間が救われていくということはどうやらありえないのではないか。こういうことにはっきりと自覚をされて、そういう迷いから出ることの出来ないような、迷いが深いそういう人間に実は本願の教えというものがたてられてあった。こういうことを非常に明らかに、歴史的な経緯の中でこのことをはっきりと言われたのが道綽禅師なんですね。
龍樹 天親 曇鸞 上三祖 顕大聖興世正意 大聖興世の正意を顕し、 従法 向機
道綽 善導 源信 源空 下四祖 明如来本誓応機 如来の本誓、機に応ぜることを明かす。 従機 向法
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。P629『歎異抄』
正直じいさん 欲張りじいさん
この世の光は影を落とす。
やまゆり園事件2016年7月26日
いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。P627『歎異抄』
義なきを義とす 浄土三経往生文類 如来二種回向文 正像末和讃 尊号真像銘文 親鸞聖人御消息集(広本) 御消息集(善性本) 親鸞聖人血脈文集 末燈鈔
別時意 摂論宗(しょうろんしゅう)中国の仏教宗派。
此は是世尊始を隱して終を顯し、因を沒して果を談ずるを、名けて別時意の語と作す。何を以て但十念成就せしむることは皆過去の因有ることを知ることを得るや。『安樂集』
教興の所由を明かして時に約し機に被らしめて、浄土に勧帰することあらば、もし機と教と時と乖けば、修し難く入り難し。P358
『安楽集』に云わく、真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。已上 P401
顕浄土真実教文類一
愚禿釈親鸞集 P152
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
『讃阿弥陀仏偈』曰
曇鸞御造 P478
讃阿弥陀仏偈和讃
愚禿親鸞作 P479
作 興起の意
正像末浄土和讃
愚禿善信集 P500
真言を採り集めて P401
23 転ず―善に転じ、かえなすというなり。P1071 注、唯信鈔文意
24 善とかえなすをいうなり―つみを、けしうしなわずして、善になすなり。よろずのみず大海にいりぬれば、すなわちうしおとなるがごとし。P1071 注、唯信鈔文意
濁世の起悪造罪は
暴風駛雨にことならず
諸仏これらをあわれみて
すすめて浄土に帰せしめり P494
(往生礼讃)また云わく、仰ぎ願わくは一切往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。 P244
今の時の道俗、己が分を思量せよ。 P360
従果向因
前途洋洋
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称 万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅、同じく悲引す。
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果 一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむと、いえり。 P206
『安楽集』
『讃阿弥陀仏偈』曰 曇鸞御造 P478
讃阿弥陀仏偈和讃 愚禿親鸞作 P479
浄土和讃 愚禿親鸞作 P483
高僧和讃 愚禿親鸞作 P489
正像末浄土和讃 愚禿善信集 P500
建長1249-1256 親鸞(78-84歳)
なかにも、この法文の様ききそうろうに、こころもおよばぬもうしごとにてそうろう。つやつや、親鸞が身には、ききもせずならわぬことにてそうろう。かえすがえすあさましう、こころうくそうろう。弥陀の本願をすてまいらせてそうろうことに、人々のつきて、親鸞をもそらごともうしたるものになしてそうろう。こころうく、うたてきことにそうろう。p.597 親鸞聖人血脈文集 1256年5月29日
さては、念仏のあいだのことによりて、ところせきようにうけたまわりそうろう。かえすがえすこころぐるしくそうろう。詮ずるところ、そのところの縁ぞつきさせたまいそうろうらん。念仏をさえらるなんどもうさんことに、ともかくもなげきおぼしめすべからずそうろう。念仏とどめんひとこそ、いかにもなりそうらわめ。もうしたまうひとはなにかくるしくそうろうべき。余のひとびとを縁として念仏をひろめんとはからいあわせたまうこと、ゆめゆめあるべからずそうろう。そのところに、念仏のひろまりそうらわんことも、仏天の御はからいにそうろうべし。慈信坊がようようにもうしそうろうなるによりて、ひとびとも御こころどものようようにならせたまいそうろうよし、うけたまわりそうろう。かえすがえす不便のことにそうろう。ともかくも、仏天の御はからいにまかせまいらせさせたまうべし。
そのところの縁つきておわしましそうらわば、いずれのところにても、うつらせたまいそうろうておわしますように御はからいそうろうべし。慈信坊がもうしそうろうことをたのみおぼしめして、これ(親鸞)よりは余のひとを強縁として念仏ひろめよともうすこと、ゆめゆめもうしたることそうらわず。きわまれるひがごとにてそうろう。この世のならいにて、念仏をさまたげんとせんことは、かねて仏のときおかせたまいてそうらえば、おどろきおぼしめすべからず。ようように慈信坊がもうすことを、これ(親鸞)よりもうしそうろうと御こころえそうろう、ゆめゆめあるべからずそうろう。法門のようも、あらぬさまにもうしなしてそうろうなり。御耳にききいれらるべからずそうろう。きわまれるひがごとどものきこえそうろう。あさましくそうろう。入信坊なんども不便におぼえそうろう。鎌倉(幕府)にながいしてそうろうらん、不便にそうろう。当時それもわずらうべくてぞ、さてもそうろうらん。ちからおよばずそうろう。奥郡(関東)のひとびと、慈信坊にすかされて、信心みなうかれおうておわしましそうろうなること、かえすがえすあわれにかなしうおぼえそうろう。これ(親鸞)もひとびとをすかしもうしたるようにきこえそうろうこと、かえすがえすあさましくおぼえそうろう。それも日ごろひとびとの信のさだまらずそうらいけることの、あらわれてきこえそうろう。かえすがえす、不便にそうらいけり。慈信坊がもうすことによりて、ひとびとの日ごろの信のたじろきおうておわしましそうろうも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらわれてそうろう。よきことにてそうろう。それを、ひとびとは、これよりもうしたるようにおぼしめしおうてそうろうこそ、あさましくそうらえ。日ごろようようの御ふみどもをかきもちておわしましおうてそうろう甲斐もなくおぼえそうろう。『唯信鈔』、ようようの御文どもは、いまは、詮なくなりてそうろうとおぼえそうろう。よくよくかきもたせたまいてそうろう法門は、みな詮なくなりてそうろうなり。慈信坊にみなしたがいて、めでたき御ふみどもはすてさせたまいおうてそうろうときこえそうろうこそ、詮なくあわれにおぼえそうらえ。p.576 親鸞聖人御消息集 1256年1月9日
承元の法難1207年
正像末和讃 康元二歳(1257年)丁巳二月九日夜 寅時夢告云
弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり
正像末浄土和讃 愚禿善信集
釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまう 正像の二時はおわりにき 如来の遺弟悲泣せよ p.500 正像末和讃
『大集月蔵経』に云わく、「仏滅度の後の第一の五百年には、我がもろもろの弟子、慧(さとり)を学ぶこと堅固を得ん。第二の五百年には、定(修行)を学ぶこと堅固を得ん。第三の五百年には、多聞読誦(戒)を学ぶこと堅固を得ん。第四の五百年(末法)には、塔寺を造立し福を修し懺悔すること堅固を得ん。第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟あらん。微しき善法ありて堅固を得ん。」今の時の衆生を計るに、すなわち仏、世を去りたまいて後の第四の五百年に当れり。正しくこれ懺悔し福を修し、仏の名号を称すべき時の者なり。一念阿弥陀仏を称するに、すなわちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでに爾なり、いわんや常念を修するは、すなわちこれ恒に懺悔する人なり。P359
スウェーデンの環境活動家 グレタ・トゥンベリ
1 釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまう 正像の二時はおわりにき 如来の遺弟悲泣せよ
和田稠先生は、「この御和讃は宗派根性で読んだら読めんのや。真宗はいい教えだ、なんて思ってるもんが読んだら読めんのや。」言っておられた。
念仏申す身であるということは、一方では念仏にであえたというよろこびがあるだけれども、もう一方で念仏申す身とは何かというと、罪悪深重 煩悩熾盛の衆生であると。そのことに悲しみがたつところに、本当にその悲しみにおいて大悲をおこして呼びかけてくる如来の呼び声 南無阿弥陀仏を本当に聞くときがきたんだと。こういう意味がある。
4 大集経にときたまう この世は第五の五百年 闘諍堅固なるゆえに 白法隠滞したまえり
世界には、日本の人口の半数を超える7,080万人が故郷を追われています。難民支援協会(JAR)
高遠 菜穂子 大分合同新聞2004年 4/23 4/24 5/20 11/1
一般にいう宗教、人間が必要とする宗教が、結局人間を救っていないという現実。
人間がそれぞれ一人ずつ、人間であることの罪に目覚めて、念仏をする、そういう世界が、はじめて殺された者も殺した者も、大切な者であったと、それこそ涙を通してというか、だから如来は大悲、最後に「如来大悲の恩徳は」で御和讃は終わる、大悲をもって衆生を救う。