親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。〈略〉
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。
詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々 『歎異抄』真宗聖典627頁
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法を能く能く学すとも、一文不知の愚どんの身になして、尼入道の無ちのともがらに同して、ちしゃのふるまいをせずして、只一こうに念仏すべし。 『一枚起請文』真宗聖典962頁
愚こそ自由の砦 児玉 暁洋
遠藤周作 『私にとって神とは』
信ずる対象
信ずる主体
挙足一歩 (足を挙げて一歩を踏み出す)
はからいのすたらぬままに年が過ぎ
はからいのすたらぬこの身のままで年がたつ
はからいの心は常にかわらねど
はからいの心の すたらぬ われをこそ聞く歩み
南無阿弥陀仏という仏は、私の信ずる対象ではないのです、信ずる主体となる仏なのです。
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃のさとらまし『正像末和讃』真宗聖典503頁
法蔵魂に生きる そこに人間の本当の確かな生き方がある。