浄土真宗の教えは、お念仏をとなえて、お念仏のいわれを聞いていくということで成立するような道です。
お念仏は、ほとけさまからの語りかけ。問いかけ。
別時意趣
隠始顕終 道綽禅師
仏トハ 西国ノ正音ナリ
此ノ土ニハ 覚ナリ 善導大師
この世とは 雑会(ぞうえ)
善因善果 悪因悪果
因ハ是 善悪 果ハ是 無記
人間とは 随縁
人がいないところを、ずっと雪山を歩いていく。そうしたら、だれもいないところで、言葉だけ聞く。
「諸行無常、諸法無我」という言葉を聞く。それを聞いてビリッとする。これは自分が一番知りたかったこと。聞きたかったこと、と雪山童子が気がつく。まわりに誰もいない。ちょっと見たら鬼(羅刹)が一匹おる。
鬼のところにいって、
あんた今、何かしゃべったかと。
何もしゃべんておらん、おれは腹がへっているだけや。
いや、あんたしかおらん。今、言った言葉の続きを言ってくれ。
しゃべっておらん、腹がへっているだけ。
もし、あんたが、あとの言葉をしゃっべってくれたら、おれの命をやるから、食ってもいい。
そしたら、鬼がしゃべるんよね。
「諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静」※註
つまり、この世にあるものは常でありませんよ、形あるものは、みな仮のものですよ。仮のものというのは条件がそろってあるんですよ。人間が生きているのは生きるだけの条件があるから生きているんですよ。条件がとけたら、なくなりますよ。ということですね。
「一切皆苦」、この世にあるものは、どんな楽しいことも、どんなおもしろいことも、結果的には苦というところに、おさまりますよ。
「涅槃寂静」、そういうものが全部ふき消されたときに一番おだやかになるんでしょう。
これは、この世の中に法を語った言葉やね。
雪山童子はそれを聞いて、ものすごく喜んで、木の幹に彫りこみ、木から鬼のところに食ってくれと、飛び降りる。鬼は、ばっと抱きかかえ。
その鬼が 仏さんだった。
だから仏教を聞くということは、ある意味でいうと、自分の求めている意識よりもっと深いところで、求めているものに出あうんじゃないかね。
※註 この文は四法印で、原文は『涅槃経』の以下の文 雪山偈とよばれている。
諸行無常 是生滅法(諸行は無常なり これ生滅の法なり)
生滅滅已 寂滅為楽(生滅 滅し おわりて 寂滅を楽となす)
阿部次郎(1883 – 1959) 「まわりの人や時代を悪く思っては生きたくない。」
まわりを悪く思ったり、うまくいかなくっても恨んだりせんで生きていきたいなと、いうことが最後の一番の根っこの願いやなと、いうことを思いました。
「もし日々の暮らしの中で、まったく出会いがなかったら、人生自体が難(わざわい)になる」 曇鸞
出会いというのは、嫌なことから、つらいことから、そうでないことを知るということでしょう。
山折 哲雄(浄土真宗本願寺派の僧籍を持つ宗教学者) 「被災したみなさんがたを直接私はたすけることはできません。ただ寄り添うことはできます。そしてみなさんがたは必ず悲しみの中から立ち上がっていくことができます。それがみなさんと共に無常ということを受けとっていくことです。」
出会いの準備 蓮如
「「同行・善知識には、能く能くちかづくべし。親近せざるは、雑修の失なり」と、『礼讃』にあらわせり。悪しき者にちかづけば、それにはならじと思えども、悪事、よりよりにあり。只、仏法者には、馴れちかづくべき」よし、仰せられ候う。俗典に云わく、「人の善悪は、近習による」と。また、「その人を知らんとおもわば、その友をみよ」といえり。「善人の敵とはなるとも、悪人を友とすることなかれ」という事あり。 『蓮如上人御一代記聞書』