• 大分県津久見市にある真宗大谷派の寺院です。

非戦・平和研修会

真宗大谷派沖縄開教本部主催の
第4回 非戦・平和沖縄研修会
に、環睦美・環史顕・環歩美・古谷久美子・
古谷奈々恵・古谷沙知子が参加しました。

沖縄戦の特徴

日本で唯一、地上戦の戦場となり、
戦死者数は戦闘員(約10万人)よりも一般住民(約20万人)が多い。
沖縄住民は、戦争のもつ真の非人間性を体験する。

  • 「捨て石作戦」
  • 「根こそぎ動員」
  • 「集団自決」「青酸カリによる自決強要」
  • 「幼児の口封じ」
  • 「日本軍の対沖縄人観とスパイ取り締まり」
  • 「日本軍の住民虐殺(約800人)、壕(ごう)からの追い出し」
  • 「従軍慰安婦(約800人)」

日本軍の対沖縄人観=「皇室、国体(天皇制)に対する観念が徹底していない」

「結局、沖縄は本土防衛のため捨て石とされただけだった。
「愛国」も「英霊」も碑文に刻むには余りにも空々しい響きを残す言葉となってしまったのではなかろうか」

  島田善次 『碑文における戦争と戦死への視点』


沖縄戦最後の激戦地、荒崎海岸。
今もまだ銃弾の跡が残っている岩がある。
ひめゆり学徒隊がいた
南風原(はえばる)陸軍病院壕
重症患者が青酸カリなどで自決を強要されたことが記されています。
米軍基地の嘉手納飛行場   「安保が見える丘」
手前の塀は、新しく作られたもの。
日本政府は、米軍基地の20%削減を約束する一方で、基地強化を図っています。
チビチリガマの前で説明する知花昌一さん

1945年4月1日、アメリカ兵が沖縄に上陸してきました。
チビチリガマでは、中国大陸での日本軍による中国人捕虜への虐殺行為を、見たり聞いたりした人がいたので、今度は自分たちがやられる番だと思いました。

チビチリガマ 自決者数82名

幼 児 26
小学生 15
中学生 3 3
高校生 3
19~49歳 18 1
50歳以上 7 5
年齢不明 1
自決者数 82

大人の男6人の内、4人が老人、2人は体に傷害がありました。すなわち国家総動員令により、ガマの中は女と子どもでした。

沖縄の集団自決は、母親がわが子を道連れにすることであった。

シムクガマの救命洞窟之碑
チビチリガマより東へ600メートル

この シムクガマ (ガマ=鍾乳洞)にはハワイに移民していた比嘉平治さんがいて、アメリカ兵が日本軍のように捕虜を惨殺するとは思えなかったので、アメリカと話し合い、1000名あまりの村人は助かりました。

     参考図書 沖縄・チビチリガマの集団自決 下嶋哲朗
    写真撮影 古谷久美子

おきなわにいったこと

古谷沙知子

8月27日おきなわに行きました。
せんそうについてべんきょうをするために行きました。
さいしょは「沖縄県青年館」というところに、とまりました。
まずは、せんそうのビデオを見ました。とってもこわかったです。

ビデオが終わったら、じこしょうかいをしました。
わたしは2番目でした。
だからきんちょうしました。

つぎに宮城喜久子さんのおはなしをききました。
喜久子さんはせんそうにあって、まだいきてた人でした。
その人は、まい日ピンポンダマくらいのおにぎりをたべてくらしていたそうです。
まっくらなどうくつの中で、ケガをした人のあしや、てをねっこからきって、ほうたいをまいたりしていました。きいただけで、ぞっとしました。

へやのばんごうは、404でした。へやは9人べやでした。
わたしはここにしました。

つぎのあさ、レストランで、あさごはんをたべました。

「み光のもと われ今さいわいに このきよき食をうく いただきます」といってたべました。おいしかったです。

つぎにバスにのって、せんそうの時にかくれるどうくつへいきました。そこにビンやら千ばづるがいっぱいおいていました。

もっとおくにほねがあるというのですが、むこうにはいけませんでした。

とてもこわかったです。わたしはお母さんのてをきゅっともって、「こわいよう」「こわいよ」といいながらいきました。中は、まっくらなので、かいちゅうでんきをつかってあるきました。

とってもこわかったです。