• 大分県津久見市にある真宗大谷派の寺院です。

法話を聞く会04

疫癘の『御文』について
武田未来雄氏(教学研究所所員)

 当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。

しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。

 これまことに道理ぞかし。このゆえに、阿弥陀如来のおおせられけるようは、「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくうべし」とおおせられたり。

 かかる時はいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、極楽に往生すべしとおもいとりて、一向一心に弥陀をとうときことと、うたがうこころつゆちりほどももつまじきことなり。かくのごとくこころえのうえには、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうすは、かようにやすくたすけまします、御ありがたさ、御うれしさを、もうす御礼のこころなり。これをすなわち仏恩報謝の念仏とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。

延徳(1492)四年六月

法然聖人の御詞にいわく「浄土をねがう行人は、病患をえて、ひとえにこれをたのしむ」(伝通記糅鈔(でんずうきにゅうしょう)

亡き人を案ずる私が 亡き人から案ぜられている
本間幸惠氏(奥羽教区蓮心寺坊守)

真宗本廟東本願寺 参拝接待所 仏間

 私たちがご本尊に手を合わせて、お念仏を申して、一時を過ごすということがあるならば、そうしている私の中には、そのことを教えてくださった、伝えてくださった方々が、いらっしゃるということです。

 手を合わせて南無阿弥陀仏と称えて、その方々に思いを致すとき、その方々のいのちは、手を合わせている私自身になって生きていらっしゃる。それが亡き人から案ぜられているということだと思います。

鬼滅の刃
竈門 炭治郎(かまど たんじろう) 禰豆子(ねずこ)
鬼殺隊