• 大分県津久見市にある真宗大谷派の寺院です。

津久見絵地図

 2019年11月14日 津久見史談会が蓮照寺に保管されている津久見絵地図を見に来られました。この時、後に紹介する地図の添付文書を読まれた酒井博さんの奥さんも来られていました。

 この絵地図は、伊能忠敬が測量してから37年後(1847年)に臼杵藩が作成したものです。江戸時代小庄屋の野田家にあったが、このままでは無くなるということで蓮照寺に預けたということです。 

大きさは約2㍍×5㍍です。

臼杵藩松崎組の浦絵図添付文書

津久見史談会 酒井 博

 セメント町の蓮照寺には、弘化四年(一八四七)に臼杵藩が作成した佐志生・大泊・松崎三組の絵図のうち、松崎組の分が保管されている。

 この絵図は縦二・五㍍、横五・一㍍の巨大なもので伊能忠敬の日本沿岸測量(文化七年・一八一〇)から三七年後につくられたものであるが、海岸線を主に、原野・山林・家屋・寺院・道路・田畑・島まで一貫した測量方法で細かく書き分け、田畑新地・河川・道路などの区別を決められた色で塗り分けている。「津久見市の文化財」には、臼杵藩は伊能忠敬の測量隊に適任者を選んで立ち会わせ、その原図を基にして絵図を作り、写しを関係庄屋に渡したとしており、平成五年に市の指定有形文化財になっている。また言い伝えでは、測量に立ち会った人が技術を学んで後の絵図を作ったともいわれているが、過密な測量日程の中で教えたり習ったりする時間が取れたのだろうかという疑問も呈示されていた。ところが適任者として藩から測量に派遣された加島英国という人物は、実は二年前の文化五年(一八○八)伊予宇和島海岸測量に来た伊能忠敬の下に行き、自ら測量の技術を磨いたのだという説があるという。それならば適任者として推薦されたことに納得がいくのだが、この説も出典は不明なので疑問符をつけておく。

 十一月十四日(二〇〇九年)の市内下青江地区史跡めぐりで、その絵図を見せていただくことが出来た。実は九年前の史跡めぐりで見せていただいたとき、裏に何か書いたものがついていたような記憶があったので絵図の端をめくってみると、文書が貼り付けてあった。この絵図を作成したときの藩の意図が書かれているようなので写真にとって読んで見ることにした。

 文書の要約は、先年の浦絵図は寸法が適当で略図であるからきちんと測量をして絵図を作るというものである。

 佐志生・大泊の絵図は臼杵市図書館で拝見したことがあったので、臼杵市教委の岡村さんに尋ねると、同じ文書がそれぞれの絵図についていたらしいことがわかったが、臼杵に現存する文書には最後の方の人の名前が連署されている部分が無いとのことで、蓮照寺の文書は貴重なものになるらしい。

 先年の絵図は総じて略図であるというのは、天保八・九年(一八三七・八)に作られた村絵図のことらしい。これは会誌十二号で発表した垣籠村の絵図や、志手町公民館に保存されている志手村絵図などのことで、天保の藩政改革に当って年貢をたしかに徴収するために作られたものであるから田畑などの場所と格付けをはっきりさせれば細かい距離のことは雑でもよかったらしいのだが、それから九年後にきちんと測量した海岸の絵図が必要になったということは、黒船が度々来航するようになり、幕府から海防についての要請が沿岸諸藩に出されたことによる時代の必要上からであろう。

 文書に示されて面白いと思うことに、御城の周囲は測っても図面には表さないと書かれていることである。これは多分臼杵藩としての国防上の理由で、伊能図のときも同様であったと思われる。

 文書は読み下し文を上段に、現代に訳したものを下段に載せてみる。

先年之浦絵図ハ只海浦の容有之分間量地之儀
無之仮令ハ佐伯御境ハ警固屋松ケ鼻より白石見通シ
沖ハ向嶋より当御領と先年より之記録絵図面ニ
有之乍併方位量地之儀無之故何之方に当り何拾何町と
申儀難知総而略図に侯て不詳義多く絵図を以
其所之地模様難斗知図面之詮無之故蒙命分間
絵図三枚新ニ仕立畢
図面壱枚ハ佐志生竜ヶ鼻御境より江無田橋夫より
大新地石垣通り中須賀蛭子の鼻石垣下掛口御番所
脇ニ通り
御城石垣外を廻り洲嵜 (崎) 将棊 (棋) 頭まて壱枚ハ祇園橋より
楠屋鼻まて壱枚ハ同所より警固屋御境松ヶ鼻まて
尤壱枚壱ヶ組限り之絵図面にはあらず三枚を続合せ佐志生
大泊松崎三ヶ組の絵図とする也
一 右将棊 (棋) 頭より祇園橋まての間
御城廻りの分は徐之図面ニ不出之但し津留村の前蟹婆
より小谷まての方位間数と沖は楠屋鼻より筏婆まて
の方位見積之間数とを以続合せ絵図と為す
一 嶋の周廻嶋間丁数且地方よりの町間婆石有所之
遠近間縄を以量地難成場所は町見を以量之其外
入海湊等海底の浅深組境村境浦々網代場等書之
一 田畑山野道川等々色分を以す図中合印有之尤田畑
山野等ハ海辺之図に不抱といへとも地模様取出しのため
書之
一 洲嵜より内入海の分、海添川左右等浦方ニ不抱分は
浜辺岸外廻りを図し内之模様を略す
一 浦々漁場申分有之規定相立之場所且双方申談等
有之様之義ハ絵図面ニ難書込ニ付此節取調子之上
浦奉行方江村役人網方連印請書取図面ニ添置候事
一 海上遠望地他組国境之嶋浦崎之方位町見を以遠近を
量り別に町見絵図壱枚仕立候事
弘化四年未七月       加納小兵衛
              三村政左衛門
      御用掛り    丸毛右兵衛
              飯沼源五兵衛
              吉田角彌
              小城幸左衛門
              松井磯左衛門
              山田左次右衛門
              高瀬恒蔵
      絵図方     高橋団内
                定治


先年の浦絵図は只海浦の容( かたち )であり正確な測量が不十分
であった。例えば佐伯境は警固屋松ヶ鼻より白石を見通
し沖は向嶋( むくしま )(無垢島)より臼杵領と先年よりの記録絵図
面にあるが、併しながら方角を測量していないので距離
がわからず総じて略図でありくわしくない、絵図では其
の場所の有様がわかりにくく詮( あきらか )でないので分間絵図三
枚を新たに作成することを命じられできあがった。
一枚は佐志生竜ヶ鼻境から江無田橋、それより大新地石
垣通り中須賀蛭子の鼻、石垣下掛口御番所脇に通り、御
城石垣外を廻り洲崎将棋頭まで、一枚は祇園橋より楠屋
鼻まで、一枚は同所より警固屋境松ヶ鼻まで、これは一
枚一組限りの絵図面ではなく三枚を続き合せて佐志生大
泊松崎三組の絵図とするものである。
一 右将棋頭より祇園橋までの間、御城廻りの分は除き図
面には出さない。但し津留村の前蟹碆( はえ )より小谷までの方
位と距離、沖は楠屋鼻より筏碆までの方位を見積もり距
離を合わせて続き合せて絵図にする。
一 嶋の周囲嶋間の距離、且本土よりの距離は碆石のある
所は間縄で量り、量りにくい所は町見で量ること。其
外入海湊などの海底の深さ、組境・村境浦の網代の場所
も書く事。
一 田畑山野道川等は色分けとする。図中に合印があり、
尤田畑山野等は海辺の図ではないが、土地の有様を取り
出すために之を書く。
一 州崎より内入海の分で海添川左右等浦方に拘らない分
は浜辺や岸の外廻りを図にあらわし内の有様は略す。
一 浦々の漁場の内、わけがあって規定を立てている場所
で双方が話し合いをもっている様は絵図面に書き込みに
くいことなので取調べを行い村役人と網方が連印をした
請書を図面に添えて置く事。
一 海上を遠く望み、他組や国境の島にむけて浦や崎から
の方位は町見で遠近を量り、別に町見絵図を一枚仕立て
る事。
弘化四年未七月( 一八四七 )  加納小兵衛 ?
               三村政左衛門(郡奉行)
        御用掛り   丸毛右兵衛(町奉行)
               飯沼源五兵衛(郡奉行)
               吉田角彌(郡奉行)
               小城幸左衛門 ?
               松井磯左衛門(浦奉行)
               山田左次右衛門(浦奉行)
               高瀬恒蔵(浦奉行)
        絵図方    高橋団内
                 定治(宇野)

量地=測量
嵜=崎
基=棋(将棊頭は臼杵市役所横にある石垣跡)
町見=西洋文化伝来以前の我国の測量技術で、高低・
   遠近を量るという(遠近だけなら歩測がある)
碆=波と石をくっつけて一字にしてあり、ハエと読
  むのではないかと考える
  (蟹磐・筏碆・碆石)
間縄=一間ずつに印をつけた測量用の縄

 絵図の最後に記された名前について、「臼杵藩士録」から名前と役職をさがして当ててみたが、小城幸左衛門という人は藩士録に見当たらない。また役職については時代がずれているので正確ではないかもしれないが、あまり違っていないのではないかと考える。
 また平清水龍源寺の三重塔を造った大工の名工として知られる高橋団内と、団内の門下で彫刻の名人といわれた宇野定治が絵図方として記されていることは、大変珍しいことではないかと思われる。
 絵図は三枚続き合わせて役に立つと記されているのに小庄屋に預けられていたのも不思議である。

伊能忠敬の津久見測量の行程 1810年

月日 本隊(伊能忠敬がいる隊) 別隊 泊まった所
2月22日 臼杵を測量  
2月23日 津久見峠・道尾・蔵富・迫口・長野→小園・志手・松崎の測量 臼杵の海岸部の測量(大泊の大庄屋宅に泊まる) 松崎村大庄屋
小野紋左衛門宅
2月24日 伊能忠敬は、休息
本隊と別隊が合同で、長目地区の楠屋・ 黒島・伊崎の測量
上と同じ
2月25日 長目地区の残りを測量(海岸寺で休息)堅浦・徳浦・稽古屋(警固屋)の測量(ここまでは臼杵藩) 稽古屋(警固屋)の野島・塩屋浦・岩屋・福・千怒・千怒崎の測量(ここから佐伯藩) 津久見浦大庄屋
岩崎藤左衛門宅
(佐伯藩)
2月26日 大雨のため測量できず 上と同じ
2月27日 千怒崎→冠→日見の測量 赤崎→江の浦→網代→福良→日見 上と同じ
2月28日 赤崎→外ヶ浦→荒代 久保泊→刀自ケ浦→赤崎→鳩浦→荒代 鳩浦
立法寺
2月29日 四浦半島の先端・保戸島の測量 上と同じ
2月30日 日蝕(しょく)の測量準備(旧暦なので30日まであります) 上と同じ

3月
1日

日蝕の測量(あいにく曇りの天気で少ししか見えなかった) 上と同じ
3月
2日
久保泊→深良津→落ノ浦→摺木 間脇→高浜→上浦(蒲戸) 上と同じ
3月
3日
鳩浦を出て佐伯の測量 津井浦
真宗寺