• 大分県津久見市にある真宗大谷派の寺院です。

配信法話を聞く同朋の会 17

5月28日の同朋の会で、2023年5月25日に行われた、「九州教区 性差別の現実に学ぶ部会 公開講座」を録画したものを聴聞しました。 後半部分。

ライブ配信2023年5月25日【九州教区 性差別の現実に学ぶ部会 公開講座 】
講師 藤場 芳子 氏 (1954年、東京都生まれ。中学校の英語教員の後、京都・大谷大学で真宗学を学ぶ。石川県野々市町常讃寺に僧籍を置く。真宗大谷派女性室スタッフ。「真宗大谷派における女性差別を考えるおんなたちの会」会員。)
◆講題 「えっ、 男女の和讃が統一されたの? なんで?」
◆日時 2023年5月25日(土)14:00~16:30
◆会場 真宗大谷派九州教務所

◆はじめに
勤行の時に読誦される「五障三従」や「女人」の文言について「痛みを感じる」という声が女性達からあがって久しい。儀式は何のためにあるのだろうか。制度は男女平等になっているのだろうか。この講座が「御同朋・御同行とこそかしずく」関係を築く一歩になることを願っている。

Ⅰ そもそもなぜ男女の区別のある葬儀和讃が制定されたのか

1、 「真宗」1972年6月号
当派における葬儀並びに葬儀前後の行事は、古来より定まっているが、近時地方の慣習などにより、種々なる形式で行われている現状に鑑み、真宗の教義に基づき、時代の要望に応え、葬儀の姿勢を正すため、新たに二種の葬儀式ならびに葬儀前後の行事を決定した。

葬儀式 第一
従来通りの棺前勤行・葬場勤行を別に行うものである。
葬儀式 第二
棺前勤行・葬場勤行を一貫して行なう、いわゆる告別式の形式を示したものである。

「五障三従(ごしょう さんしょう)」の言葉は、女性の「機の自覚」をうながすための言葉であり、それを差別だと受けとめる者は「凡夫の自覚」のないものだという形で、現にある女性差別を指摘する女性たちの声をおさえこんできたのではないか。

*このような往生論は、その前提として女性の罪業の深さや汚辱の身をことさら強調しますから、これが真宗の伝統的女性観となっていくなら、近代における女性解放を妨げ、女性差別をながく温存することに真宗教団が加担することにもなりかねない、危険な問題をはらんでいたと言わざるをえません。(蓑輪秀邦)→→「女性は業が深い」ということを女性自身が内在化し疑問をもたなくなる。

*問題は罪深いという自覚を他者に対しておしつけるという、そういう教化者意識がいつでも差別を生みだす根っこにあるということ、このことをわたしたちは深く学んでいかなければなりません。(蓑輪秀邦)

Ⅱ 伝統継承されてきた儀式声明作法と現代の価値観をどう考えるか

*加来知之『教化研究』第135号 2006年)
・「五障」は経典に説かれている仏教思想である。しかし、経典に説かれているから、そのまま絶対間違いのないこととして、現代社会に生きる我々が無批判に使用してよい、ということにはならない。略 場合によっては聖教の意図に背くことにもなる。
・言葉はいったん発せられると、使用者の意図を超えた効果を生む。差別事象に対する批判のために使われた言葉が、言葉として固定化してしまうことで、かえってその差別事象を固定・強化するはたらきをしてしまうことも往々にしてある。
・御影堂での和讃や『御文』の拝読について、法話などでその内容が説明されることがないので、「真宗は女性差別的だ」との印象を与えてしまうのではないか。その趣旨を誤解されたり、歪めたりする可能性があることは、やはりできるかぎり控える方が望ましいのではないか。

Ⅲ 「男女両性で形づくる教団」のスローガンと現状はどうなっているのか

~「女(ひと)と男(ひと)のあいあうカルタ)を通して考えてみる~
*意識と制度(しくみ)の両方が大切

① ・教区合併会議は男女共にしているか。
・坊守(会)の位置づけは現状のままでいいか。
・法名の釈と釈尼の区別
「絵に描いた 餅にさせない 男女共同参画」「会長は 男の人に 押し付けて」「教区会・組会 男ばかりで 何決める」「乗り越えよう 制度、因習、世間体」

② 発言し合い、聞き合う関係になっているか。
「踏まれたら その時痛いと 言いたいね」「珍しい 生き物ですか もの言う女性」「もうやめよう 「女だから」の言い訳は」
→沈黙は同意、笑いは共犯(上野千鶴子)

③ 性差別問題を語ることの難しさ。抑圧と無自覚。特権
「ジェンダーの 問題みんなで 考えよう」(無自覚な偏見=アンコンシャスバイアス)
「見えないね 歴史の中の 女たち」(『資料集』の年表・1851年)
『差別はたいてい悪意のない人がする』(キム・ジヘ、大月書店)

・差別はつねに差別によって不利益をこうむる側の話しであって、差別のおかげでメリットを得る側の人が、みずから立ち上がって差別を語ることはあまりない。差別はあきらかに両者の非対称性によって生じるものであり、すべての人にとって不当なことであるのにもかかわらず、不思議なことに、差別を受ける側だけの問題のようにあつ
かわれる。
・誰かに対して「真に平等」に接し、その人を尊敬するのであれば、それは自分の無意識にまで目を向ける作業を経たうえでなければならない。いわば、自分が認めたくない恥ずかしい自分を発見することである。
・平凡な人がもつ特権。特権というのは、いわば「持てる者の余裕」であり、自分が持てる側だという事実にさえ気付いていない、自然で穏やかな状態である。
・自分が特権を有することに気づく確実なきっかけは、その特権が危うくなる時。しかし、性別のように、なかなか逆の立場を経験しにくい場合、一生その特権に気づけないかもしれない。

④ 出発は「私」から、そして「教団の変革」へ
「おむつ替え だんだん父に なっていく」「住職の子守りじゃないのよ 坊守は」
「脱ぎ捨てた 服は自分で たたんでね」「理屈言う 口があったら まず動け」
「寝たふりを している亭主に 灸をすえ」
『名もなき家事』(梅田悟司、サンマーク出版)

◆おわりに

・日本で最初に出家したのは3人の女性だった(584年)。奈良時代、僧侶と僧尼の役割に基本的な違いは無く、女性が罪深いというような言葉は一般の文献には出てこないが、平安時代になると尼僧の排除が進められ「男僧の法衣を洗濯しろ」という命令が出たのだという。この話しを「女性会議」の講義で平雅行さんから聞いた時は、ショックだった。女性住職就任が認められるきっかけとなった「部落解放同盟本部への回答書」1989年(『資料集』p140)はいまだに大きな課題として残っているのではないだろうか。