• 大分県津久見市にある真宗大谷派の寺院です。

2023年 秋彼岸会

彼岸会御文

彼岸会御文

そもそも此(この) 吉崎(よしざき)の一宇(いちう)にして、彼岸会と申す事は、春秋(しゅんじゅう)の両時(りょうじ)において、天正(てんしょう) 時正(じしょう)と申して、昼夜(ちゅうや)の長短(ちょうたん)なくして、暑からず寒からず、其(その)日いでて正等(せいとう)にして直(ただち)に西に没し、人民(にんみん)の往還(おうかん)たやすく、仏法 修行のよき節(せつ)なるによりて、其(その)かみ 仏(ぶつ) 在世(ざいせ)より末代(まつだい)の今にいたりて、これを行(おこな)ふ也(なり)。

此(この)時は、人の心ゆたかなるによりて、信行(しんぎょう) 増上(ぞうじょう)し易(やす)し。

されば、冬は秋の余(あま)り、夏は春のすへなれば、夏冬(なつふゆ)は艱苦(かんく)にして、信心修行も を(お)ろそかになりやすきに、この両時(りょうじ)の初めこそ、信行相続して、未安心(みあんじん)の人は宿善(しゅくぜん)の花も開(ひら)け、信心開発(かいほつ)の人は、仏果(ぶっか) 圓満(えんまん)の さとりをも うるにより、都(すべ)て仏法信仰の人は、参詣(さんけい)の足手(あして)を運(はこ)び法會(ほうえ)に出座(しゅつざ)するものなり。

しかれば、彼岸会といへることは、七日の内 中日は、日輪(にちりん) 西方(さいほう)にかたぶき、かの浄土の東門(とうもん)に入りたまふ。

此(この)ゆへに無爲(むい)涅槃の極樂を彼岸とはいへり。

今娑婆(しゃば)を此岸(しがん)といひて、生死海(しょうじかい) 有爲(うい)の迷のきしなるにより、仏願 正智(しょうち)の弘(ぐ)誓(ぜい)の舟に乗(じょう)じ、さとりの かのきしに至りうるの念仏なれば、経には「一切 善本(ぜんぼん) 皆度(かいど) 彼岸」と説き、又は「究竟(くきょう) 一乗(いちじょう) 至于(しう) 彼岸」とも のたまへり。

故(ゆえ)に当流 祖師聖人の御(ご)法流(ほうりゅう)には 、まづ平生(へいぜい) 業成(ごうじょう)の御勧化(ごかんけ) 入(にゅう)正定聚の益(やく)あれば、あながちに此(この)両時(りょうじ)にはかぎらず、つねに仏恩(ぶっとん)を信知するといへども 未安心(みあんじん)の人は ただ名聞(みょうもん) 人目(ひとめ)ばかりの心にして 法座に のぞみ たまはば 信心も等閑(なおざり)なるべし。法理(ほうり)も白地(しろじ)にならずして、たとへば珠(たま)を淵(ふち)になぐるが如く、又は うへきの根なきに似たり。

これ(ひ) ねがはくは 皆々、名聞(みょうもん) 人目(ひとめ)の心をすてて、信心報謝の念をはこぶべきなり。

その肝要(かんよう)と申すは、弥陀如來をたのみ、今度(こんど)の我等(われら)が一大事の、後生たすけたまへと、一筋に信じ雑行(ぞうぎょう)雑修(ざっしゅ)をはなれたる 一心專念の人は、十人も百人も、のこらず極樂に往生すべきことを たふとみ、その嬉(うれし)さには、ねてもさめても南無阿彌陀仏を申して、足手(あして)をはこび信心相続あらば、ひとへに信行両益(りょうやく)の人と云(いう)べし。

これすなはち十即(じっそく) 十(じっ)生(しょう) 百即(ひゃくそく)百生(ひゃくしょう)の人数(にんずう)たるべきものなり。

これぞまことに彼岸会 参詣(さんけい)といふべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ

右於吉崎一宇令建立執行彼岸会者也。

文明五年八月十四(十三)日 蓮如 五十九歳判