日本で唯一、地上戦の戦場となり、
戦死者数は戦闘員(約10万人)よりも一般住民(約20万人)が多い。
沖縄住民は、戦争のもつ真の非人間性を体験する。
日本軍の対沖縄人観=「皇室、国体(天皇制)に対する観念が徹底していない」
「結局、沖縄は本土防衛のため捨て石とされただけだった。
「愛国」も「英霊」も碑文に刻むには余りにも空々しい響きを残す言葉となってしまったのではなかろうか」
島田善次 『碑文における戦争と戦死への視点』
1945年4月1日、アメリカ兵が沖縄に上陸してきました。
チビチリガマでは、中国大陸での日本軍による中国人捕虜への虐殺行為を、見たり聞いたりした人がいたので、今度は自分たちがやられる番だと思いました。
チビチリガマ 自決者数82名
女 | 男 | |
幼 児 | 26 | |
小学生 | 15 | |
中学生 | 3 | 3 |
高校生 | 3 | |
19~49歳 | 18 | 1 |
50歳以上 | 7 | 5 |
年齢不明 | 1 | |
自決者数 | 82 |
大人の男6人の内、4人が老人、2人は体に傷害がありました。すなわち国家総動員令により、ガマの中は女と子どもでした。
沖縄の集団自決は、母親がわが子を道連れにすることであった。
この シムクガマ (ガマ=鍾乳洞)にはハワイに移民していた比嘉平治さんがいて、アメリカ兵が日本軍のように捕虜を惨殺するとは思えなかったので、アメリカと話し合い、1000名あまりの村人は助かりました。
参考図書 沖縄・チビチリガマの集団自決 下嶋哲朗
写真撮影 古谷久美子
古谷沙知子
8月27日おきなわに行きました。
せんそうについてべんきょうをするために行きました。
さいしょは「沖縄県青年館」というところに、とまりました。
まずは、せんそうのビデオを見ました。とってもこわかったです。
ビデオが終わったら、じこしょうかいをしました。
わたしは2番目でした。
だからきんちょうしました。
つぎに宮城喜久子さんのおはなしをききました。
喜久子さんはせんそうにあって、まだいきてた人でした。
その人は、まい日ピンポンダマくらいのおにぎりをたべてくらしていたそうです。
まっくらなどうくつの中で、ケガをした人のあしや、てをねっこからきって、ほうたいをまいたりしていました。きいただけで、ぞっとしました。
へやのばんごうは、404でした。へやは9人べやでした。
わたしはここにしました。
つぎのあさ、レストランで、あさごはんをたべました。
「み光のもと われ今さいわいに このきよき食をうく いただきます」といってたべました。おいしかったです。
つぎにバスにのって、せんそうの時にかくれるどうくつへいきました。そこにビンやら千ばづるがいっぱいおいていました。
もっとおくにほねがあるというのですが、むこうにはいけませんでした。
とてもこわかったです。わたしはお母さんのてをきゅっともって、「こわいよう」「こわいよ」といいながらいきました。中は、まっくらなので、かいちゅうでんきをつかってあるきました。
とってもこわかったです。